さて、先日の坐禅の時にお坊さまに伺ったお話。
坐禅中は、まったくピクリとも動かずにずーっと座っていて、
しんと静まり返ったお堂でも外の音は聞こえてくる。
真夏の今は、うるさいほどの蝉の声。
大音量の蝉の声なのに、
でもものすごく静かさを感じる。
まさに、松尾芭蕉が読んだ
閑さや岩にしみ入蝉の声
の世界。
あ、思い出した。
昔なにかで、
蝉の声がうるさいのに、閑さやとはこれいかに?
的なのを読んで、不思議に感じたことがあったけど、
日本人なら、このうるさいのに静か・静かなのにうるさい、
っていう感覚、わかると思ってたけど違うのか?
とずーっと思っていた。
そういえば、能の世界では、静かな場面を表現するときに、
逆に太鼓の調べを入れる演出があったりするよなぁ~。
しんとした世界を表すために、キーンと思わせる太鼓で
囃子を入れるっていうね。
逆説的な表現であらわす世界、ってあると思うの。
あ、話がずれた。
もとい。
しんと静かなところに蝉の声だけが入ってきて、
だんだんと無になってくると、
お坊さまの話では、
その蝉の声が、どんどんと自分の中にしみこんできて、
まるで自分の中から響いてくると感じるようになるという。
これってすごい芭蕉的。
そうか、芭蕉さんはこれを体験したのに違いない。
そして、お坊さまのお話では、
ずーっと動かずに坐禅を組んでいると、
自分の身体の感覚までもが無になってしまい、
自分の腕や、組んでいる脚や、体や頭までもが、
なくなってしまったのではないか、
という感覚に襲われるらしい。
そんな風に、自分の感覚がなくなってくると、
岩のような無機物になったような気持ちになるのかもしれない。
そーっすっとやっぱり
閑さや岩にしみ入蝉の声
の岩も、無感覚になった自分のことを言ってるのかもね。
今回の体験だけの短い時間だけでは、
自分の中から蝉の声が響いても来てないし、
岩にもなってないけれども、
なんとなく、無になる感覚がわかって、
しかもすごく気持ちがよかったので、
ちょっと積極的に定期的に出来る方法を模索しているところ。