風太郎が死に場所として選んだのは、

かつて父に家から追い出された冬の夜、母と一緒に過ごした海辺の物置小屋。

そこは、少年時代の風太郎が初めて人を殺してしまった夜に、身を隠した場所でもあった。

 

風太郎が泣き叫びながら、柱に刻んだ言葉。

 

金持ちになって幸せになってやるズラ

 

今、風太郎はこの柱の前に座り、

腰に巻いたダイナマイトの導火線に火をつけ、

後ろ手に自分を縛り、

 

「わかったよ」

導火線の火が、刻一刻と迫り”その時”に到達するのを待つ。

 

柱に刻まれた、”幸せ”の文字が歪んで見える風太郎の中で、

もしかしたら、ありえたかもしれない、

もう一つの世界が展開される……

 

 

その世界では、風太郎はごく一般的な家庭に生まれた少年だった。

父、健蔵は会社勤めをしており、酒に酔って暴れることもなく、ちゃんと父親としての責任を果たし、家族を支えることのできる男だった。

母は病弱ではあるものの、ちゃんと病院で治療を受けることができ、やがて手術も成功して、病に打ち勝つことができた。

 

金持ちではないが、お金が無くて苦しむこともない、

父は家族のために頑張って働き、母は家族の世話をして家庭を守り、息子はそんな両親に感謝をして思いやることができる、

家族三人がいつも笑いあえる、温かい家庭がそこにはあった。

 

大学生になった風太郎は、そこで茜と出会った。

茜は顔に痣も無く、健康で明るい普通の女の子だった。

二人は普通に恋をして、交際を始めた。

 

姉の緑はお高くとまった社長令嬢などでは無く、風太郎を初対面で「フーくん」と呼ぶような気さくな女性で、普通に会社勤めをしていた。

 

大学を卒業した風太郎は、緑の勤める造船会社に就職をし、社会人としての一歩を踏み出した。

風太郎は茜の父、譲次の元へ茜との交際の挨拶に出向いて認められた。

 

そして、両家顔合わせをし、結婚式を挙げ、二人でアパート住まいをして独立し、

妊娠、出産……。

 

風太郎は、こうして人の子の親となるのだった。

 

 

「うわーーーーッ!!いくぞッ!死ぬぞッ!!」

絶叫し、涙を流し、涎を垂らして、のたうち回る風太郎。

短くなった導火線に唾を吐きかけ、「畜生、畜生ッ!!」

それでも無情に導火線の火は迫り来る。

そして、ダイナマイトに火が届く寸前、

風太郎の意識は事切れ、そのまま爆死する。

 

 

 

この、最終回の大半を占める、もう一つのありえたかもしれない世界。

どこかで見たことがあるような、典型的なホームドラマをなぞったような”普通”の「幸せ」がずっと展開される。

 

これを見てすぐに思い浮かんだのが、1996年放送のテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の最終回でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/新世紀エヴァンゲリオン

主人公、碇シンジの苦悩と絶望が頂点に達した場面で、ストーリーは彼の精神世界に切り替わり、そこではシンジたち登場人物が、典型的な学園ラブコメディの、ありふれたシチュエーションを展開させるのでした。

 

この展開は「もう一つの可能性」として語られ、「世界は自分次第であらゆる可能性がある」とするものでしたが、

監督、庵野秀明の意図としては、

「この作品を支持しているアニメファンたちは、結局、このようなハッピーなシチュエーションが大好きで、最後には皆んなを安心させてくれる大団円のラストが見たいだけなんだろ」

という皮肉を込めたものでもありました。

 

この「銭ゲバ」の最終回もまた、同じ手法で作られています。

「もし、風太郎がごく普通の家庭に生まれ育ったら」

そんな妄想を、そのまま丸ごと挿入して視聴者に見せることで、

”テレビドラマを見る”という行為の裏には、どのような欲望が潜んでいるのか、という問いを、われわれに突き付けようとするのでした。

 

 

 

そして、風太郎が死亡した後のエピソード。

 

「伊豆屋」に風太郎から2000万の入った小包が届けられ、そこには「ベラ定食ごちそうさまでした。おいしかったです。」の手紙が添えられていた。

 

風太郎が大金を援助した萩野の妻は、手術が成功して元気な様子。

 

そして父、健蔵は一杯飲み屋の店先で、風太郎が自殺をした死亡記事の写真を切り取り遺影にして、「初めてだな。お前と飲むの」と酒を酌み交わすのだった。

 

緑は風太郎の墓を訪れ、

「銭ズラ…」

と、泥にまみれた1円玉を供える。

その1円玉は、風太郎が爆死した、その爆風に飛ばされて、一切を見届けていた緑の足元に落ちてきたものだった。

 

そして緑は立ち去る。その後ろ姿を映す、次のカットでは、墓に置かれた1円玉は転がりだし、時間が巻き戻りはじめ、

風太郎が爆死をする直前の小屋の中へと戻る。

 

そこでの風太郎は、死に怯えて泣き叫ぶこともなく、冷静に語りはじめる。

 

「わかったよ。わかったって。

「俺はもう死ぬよ。

「それが望みだろ?お前らの。
「消えてやるさ。」

 

「ただな。俺は思うズラ。
「この腐った世界で、平気なツラしてへらへら生きてるやつのほうが
「よっぽど狂ってるズラ。」

 

「この世界に生きてるやつはみんな銭ゲバだ。
「お前らは気づかんで、
「いや気づかんふりして、
「飼いならされた豚みたいに生きてるだけの話ズラ。」

 

「そいでよきゃ、どうぞお幸せに。
「ただ、俺は死んでも俺みたいなやつは、
「次々に生まれてくるズラ。
「そこらじゅう、歩いてるんだぜ。銭ゲバは。」

「じゃあね……」

 

醜く顔を歪めて笑う風太郎。

 

こうして物語は終わる。

 

 

最後の長ゼリフはとても説教くさく、蛇足に感じられます。

突然カメラ目線で、登場人物が視聴者にメッセージを語り出すというのは、とても陳腐で、これまで築き上げてきた作品世界をぶち壊す行為であり、興ざめも甚だしいものです。

 

しかし、この禁じ手を敢えてやった製作者の意図は?

 

この最終回では、二次創作的な妄想のエピソードを挟み込むことにより、どこまでが真実で、どこからが妄想なのか、曖昧としてわからなくなっています。

 

見方によっては、

風太郎が死の間際に幸せな世界を想像したのも、

風太郎が死の恐怖に泣き叫び、のたうち回ったのも、

風太郎が「伊豆屋」にお金を送ったのも、

萩野の奥さんの手術が成功したのも、

健蔵が風太郎の死を悼んで酒を呑んだのも、

 

全ては緑の願望、妄想であった。

とも読み取れるのです。

 

この緑の願望は、そのまま視聴者のドラマに求める欲望とリンクをする。

 

いろいろと、酷く、悲しいことが起こったけど、最後には、このかき乱された心を落ち着けて、安心させてほしい。

そうやって流した涙とともに、私の心に溜まった澱のような辛さや悲しみを解放して、忘れさせて欲しい。

 

カタルシスという物語の持つ効用、「精神の浄化作用」は心の平穏を保つのにとても有用です。

しかし同時に、精神の浄化、心の解放とともに、それでも厳然として存在する問題、解決されることのない苦悩から目を逸らさせて、”忘れさせてしまう”ものでもあります。

 

このドラマは、このようなカタルシスを許さない。

なぜなら、風太郎や茜たちのような苦しみや悲劇は、忘れてはならない、今も現実に起こり続けているものであり、これからも風太郎たちは現実に生まれ続けるのだから。

 

物語の悲劇とその大団円に酔いしれる視聴者に、敢えて”虚構”の冷や水を浴びせかけて、目を醒まさせる。

そうやって興を削がれた視聴者は、こんなものはくだらない、ただの作り話だ。と憤慨して切り捨てるだろう。

そしてまた別の物語を、自分たちが心の内に望んでいる”感動”を、耳触りの良い甘美な言葉で言い当ててくれるものを求めて、これからも幾多の物語を消費し続けようとするだろう。

 

このドラマも、そうやって感動・快楽装置として消費される物語の一つにすぎない。

だがそれでも、「これは”虚構”である」と殊更に強調して、見せつけ、憤慨させることで、

逆に現実の”忘れてはならないもの”、視聴者の心に簡単に消化できないような感情を、なんとかして残すことができないだろうか?

 

そんな試みだったように、私には思えるのです。

 

 

 

では、あの風太郎の幸せな世界、ありえたかもしれないもう一つの世界は、視聴者を皮肉るための、取るに足らないでっち上げでしかなかったのでしょうか?

 

確かにあの想像の世界は、風太郎の生きた現実からかけ離れた、非常に類型的でカリカチュアライズ(戯画化)された”幸せ”にも見えます。

これが、風太郎が辛い現実を忘れるために生み出した妄想であったとしたら、それは否定されるものでしょう。

 

先回でも取り上げた、ニーチェの著書『権力への意志』では、このような別世界への逃避願望を否定しています。

私たちが、私たちの存在から、私たちの現状からのがれでてゆきうるような、いかなる場所も、いかなる目的も、いかなる意味も、まったくない。

この世界に真の理想の世界などありえず、人生には目的も意味もなく、ただ我々はこの現実を生きていくほかない。

 

私は親からこの生を受け継ぎ、親はその親から受け継ぎ、その親は…。

そうやって命の連鎖は途切れることなく、永遠に繰り返されてきた。

この我々が生きる現実は、そうやって繰り返し続ける円環運動に閉じ込められており、別の世界へ抜け出すことは叶わない。

 

この円環運動の中では、一度起こった不幸は永遠に繰り返される。

しかし同時に一度起こった幸せもまた、永遠のものとなる。

 

この永遠回帰という思想は、現実からの逃避を許さないが、幸せを求めること自体を否定するものではない。

むしろ、幸せを志向することこそが、自分の生そのものを肯定する原動力なのだと説くのである。

 

 

辛い現実を忘れて、逃避するための”虚構”ではなく、

辛い現実を直視し、あるがままを受け入れて肯定するための、手掛かりとしての”虚構”は、我々が生きるために不可欠なものである。

 

あのドラマで描かれた”幸せ”のかたちは、類型的であったがゆえに、むしろ多くの人々の心にある固有の”幸せ”を想起させるものでもありました。

 

そうして、それぞれの”幸せ”を胸に抱きながら、現実を直視し、受け入れる強さを持って、生きていくことの大切さ。

 

それこそが、このドラマが視聴者に伝えたかったことなのではないでしょうか。

 

 

風太郎から目を逸らさず、最後まで見守り続けた、緑のように……。

 

 

 

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ここまで長々とお付き合いくださった、あなたへ。

どうもありがとうございましたチュー

 

まだこのドラマを見たことがなかった方は、

ネタバレしまくってごめんなさい滝汗

 

賛否両論ある問題作ではありますが、

私にとっては、とても心に残った作品でした。

 

これをきっかけに興味を持たれた方がいましたら、

ぜひ、迷わずドラマ本編を見てみてくださいね〜ウインク

 

このドラマのエンディング曲も、名曲なんだよなぁ〜ラブ