去年ね、行ってきたんですよ。

漫画家しりあがり寿の美術展

 

回・転・展

 

愛知県刈谷市美術館(2016年 9/17~11/6)

 

 

とにかくなんでも回してみる手裏剣 美術展

 

「このヤカンは回転している間だけ芸術になります」

 

 

で、ヤカンが回ると電光掲示板に「芸術」の文字が点滅します。

 

他にもいろんなものが回ります。

湯のみ、CD、封筒、タバコ、レシートなどなど

写真では止まっていますが、これら全部回転しています手裏剣

 

私のなぜか一番ツボにはまったのが「雇用証明書」

しりあがり寿が会社を辞めた時にもらったものらしい。

 

なんでこんなものが美術館のショーケースの中で

ぐるぐる回っているのか?

 

これ、もらってからかれこれ20年は経っているだろうに

紙が日に焼けたりもせず、シミひとつ無くめっちゃキレイNEW

ずっと封筒に入れたまま、引き出しの奥かなんかにしまわれていたんだろーなー

このめっちゃキレイなのがポイントで、これが古びて時代を感じさせるものだったらそこまで私の心の琴線に触れなかったでしょう。

 

この雇用証明書がただ展示されているだけだったら、しりあがり寿の人生を振り返る資料としてしか意味をなさないが、(しかも大した資料でもない)爆弾

しかし、これが回りだしたとたん、なぜか全く違う意味が発生してしまう。

この不思議目

 

とにかくなんでもかんでも回してみて、

”回転”ってなにはてなマーク

と回ることの不可思議さを体験し、

”回転”について思いを馳せてみよう。

そんな「回転讃歌」がこの美術展でした。ドンッ

 

 

 

 

で、今回はこの美術展でも原画が展示されていた、しりあがり寿の初期の傑作

”他所(よそ)へ…”

を取り上げます。クラッカー

 

 

1990年刊行の作品集「夜明ケ」に所収

 

この作品は1988年に描かれた、たった8ページの短編漫画です。

 

画像をのっけたいところですが、著作権侵害になるのでやめときます。

なんとか探し出して、ぜひ読んでみてください。泣けます。

 

で、どういうお話かというと、

舞台は遠い未来のどこかの星(地球?)

メトロポリスかブレードランナーのような未来の大都会で、

「美わしの都はひっきりなしのお祭りさわぎ」

”なんにもないけどとにかく記念祭”と称しては、多くの華やかな人々が連日浮かれはしゃいでいる。

そんな都会のどんちゃん騒ぎをよそ目に、主人公の男は仕事を終えて3階建ての通勤電車に揺られて帰路につく。

男が家に帰り着くと、そこには

「おかえりなさいあなた!!はやかったのねーーー!!」

とすごい勢いで飛びついてくる、若く可愛い妻が待っていた。

 

彼女はある事故が原因で体がサイボーグになっていた。

しかし立派な機械の身体はとても高価であり、男の収入では安いブリキの四角い箱の身体が精いっぱいだった。

ゴツゴツと四角い身体になってしまった彼女は、それでも明るく元気に夫の世話をし、仲睦まじい夫婦生活を送って、二人幸せに暮らしていた。

 

そんなある夜、妻は家事の最中に無理がたたって、ブリキの箱の身体をも壊してしまう事故を起こしてしまう。

病院に運ばれ、医者に「奥様は…助かりませんな…」と告げられる。

 

「ただし…2人で1つの生を送るというのなら…」

それは、妻の身体はもはやボロボロで手の施しようがないが、その四角い機械の身体に男も入り込んで、二人でその身体を共有すれば、妻の命を助けることができるだろう、というものであった。

 

そして男は妻の機械の身体に入る選択をし、2人は1つの身体として生まれ変わることになった。

ただその機械の身体は切り替え式で、夫が意識のあるうちは妻は意識を失い、妻にスイッチが入っているときは夫は活動を停止してしまうのであった。

したがって妻の命を助けることはできたが、もう二度とお互いに直接気持ちを伝え合うことも、触れ合うこともできなくなってしまったのであった。

 

そんな2人が行き着く場所は……。

 

 

この作品のタイトル”他所(よそ)へ…”は、竹宮恵子の”地球(テラ)へ…”のパロディーになっています。

 

”地球へ…”は管理社会から疎外された新人類ミュウ(若者の象徴)が体制側の旧人類(大人の象徴)と戦いながら、遠く離れた人類の母なる惑星地球へと目指す物語。

 

今の世の中に違和感を覚え、自分が自分らしく生きられる世の中へと革新を望む若者は、常に”ギャング”として社会から疎外され、扼殺される。

 

なぜこの世の中はかくも息苦しく、所在ない場所なのだろうか?

自分を縛り付け、閉じ込める社会の牢獄の中で、ただ疎外感と孤独感を募らせ、苦しみ続ける”ギャング”たち。

 

「まだ何者でもない、しかし何者かになりたい、でも何者にもなれない」

 

この閉塞感を打ち破り、新たなる世界へと抜け出したい。

 

新人類ミュウたちは、新たなる世界を根源的な故郷である”地球”に求めた。

しかし壮絶な戦いと喪失を繰り返しながらようやくたどり着いた”地球”は、残酷にもミュウたちの安住の地にはなり得なかった。

 

”根源的な故郷(ルーツ)”にも自分の居場所はなかった。

ではどこを目指せば、この閉塞した世界から抜け出せるのか。

 

ここではない、どこかへ

 

 

世界は頑なに自分を受け入れてはくれず、その世界を変えることもできないのであれば、世界と組みするのではなく、逆に個人的なアプローチから。

誰かと、愛する人と繋がり合うことで孤独を脱し、疎外から抜け出すことで、自分の居場所を、世界を獲得することができないだろうか。

それが”他所へ…”の試みでした。

 

しかし愛する妻と物理的にひとつに繋がり合った結果が、ずっと一緒にいるのに二度と会えない、より深い孤独と疎外を生むというアンビバレンスな運命に、私はどうしようも無い、やるせない人生の悲哀を感じるのでした。

 

 

 

この”他所へ…”が描かれた1988年という年は、昭和が終わる前の最後の年であり、バブル景気真っ只中で、誰もが「美わしの都はひっきりなしのお祭りさわぎ」に浮かれはしゃいでいた時代でした。

しかし一方で、そんな華やかな世間の空気から取り残され、疎外された若者たちが少なからずいたのもこの時代でした。

 

作品集”夜明ケ”に同じく収録されている”シリーズはたちマエ3「長い夜」”でも、そんな若者たちの気分を色濃く投影しています。

 

ボロい四畳半のアパートの一室で、夜中に鬱屈した若者がひとり呟く、

「なんとゆー毎日…」

「お日様がない…」

「それでも将来」

「エライ人になる!!」

ドン

とコタツを叩いた拳から、ニュと異界の者たちが現れて、”金色様”の指し示す世界へ誘おうとする。

”金色様の土俵入り”に仲間入りをして新たなる世界へ旅立つためには、自分の「未来」をお供えとして差し出さなければならない。

若者はその誘いを断って取り残され、他の者たちは”金色様”と命綱で繋がり、渦を巻いて一体となって旅立ってゆく…。

 

世の中に対する苛立ち、無力感、焦燥感。

疎外感。そして孤独感。

 

世界を変えることができないのならば、自分が変わるしかない。

しかし何になればいいのか?

ただ「エライ人」というしかない、何もない今の無力な自分。

 

堂々巡りの出口が見えない迷路は、一体どこまで続いているのだろうか?

 

 

 

あれから30年近く経った2014年。

しりあがり寿は紫綬褒章を得て、とりあえず「エライ人」になりました。

 

かつて、行く場所も帰る場所も見出せずに、ただひとり自分の「未来」だけを頼りに生きることを選んだ若者、しりあがり寿は、こうして「エライ人」になることで、果たして堂々巡りの迷路を抜け出すことができたのでしょうか?

 

そんなしりあがり寿は今、回転することにこだわり続けています。

 

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……

 

どこかへたどり着いたのか?

それともはじめに戻っただけなのか?