最も好きな芸術家のひとりであるエドガー・ドガの大回顧展が、我が横浜ではじまった。

今回の帰省において、絶対に行こうと決めていたから、寝坊した朝から興奮していた。

やはり注目度が抜群に高い『エトワール』目当てだろうか、古参が中心とも思える大勢の人々が集まっていた。
チケットを購入…
ふと人だかりに目をやると、『エトワール』の踊り子の衣装を再現した展示があった。

美しすぎて言葉が出なかった、男の私として、そしてドガの魅力にとりつかれた私としては、この衣装に神秘を感じるのだ。
女性と神秘…
根源たる美しさに、泡沫の夢を見る。
さて、回顧してみようじゃないか。
<踊り子>と<欲女>、そして<競馬>や肖像画などで有名なドガらしい、それらで構成された展示だった。
そのなかでも余韻として残る作品を回顧してみることにする。
まずは『木蔭で死んでいるキツネ』。
はっきり言って、この作品をひと目見た瞬間に自らの肺に冷気が静かに入り込むような心地がした。
一瞬不気味に感じながら、じっとキツネの顔を見つめていると…
そこにいたのは自分自身だった。
息も凍りつくような寒さ、あるいは肌を舐めるように吹きすさぶ北風に、静謐を感じた。
どうして彼は死んでいるのか?
周りには誰かいないのか?
いったい、ここはどこなんだろうか?
そんなものは求めない。
必要なんてないから。
大事なのは、彼が私の心に静けさを取り戻してくれたこと。
私と彼は、世紀を超えてつながっている。
続いて『出走前』。
こちらも彼の代表作として名高い作品である。
人物画と同じく、ドガの描く馬は躍動感がある。
具体的にいうと、筋肉質な身体を流れる血が音を奏でているような気分になる。
貴族の社交場であったらしく、彼らを観客にしたオーケストラのようだ。
1頭として同じ顔の馬はいないから、個人的に各馬の能力や名前なんかを決めていたりする。
そんな実況を始めたくなる、まさに出走前にファンファーレを心待ちにする心境でカンヴァスを捉えるのだ。
次に『浴盤(湯浴みする女)』。
解説にもあるが、なるほど視点が巧妙だ。
こちらとしては、眺めているのが少しばかり恥ずかしくなってしまいそうになる。
覗きの神秘が、普遍的な日常へ…
そして、どこか安心感を与えてくれる作品だ。
ドガ作品に対する信条といってもよい、私にとって心待ちにした女性が、そして彼女を見守る自分がいた。
そして…
日本初公開の『エトワール』が眼前に現れた。
遠目から観てもそれと分かる色彩は情熱的で、そして観るものを誘い込む神秘性にはどこか悪魔的なものさえ感じた。
精緻な構図や圧倒的なストーリーに、エトワールが輝かしく踊っていた。
何とも酔いしれたようなエトワールの表情に、こちらも恍惚としてしまっていた。
色彩が赤や茶で情熱的なようでも、それさえも丸め込むようなエトワールの衣装、そしてその踊り。
風をきって、その場を自分色に染めかかっている最中のようだ。
この世界で最も強いもの、魅力的なものが何か分かった気がする。
選ばれたもの…
その高貴さゆえに忘れがちな努力も、彼女の表情にはしっかりと感じることが出来た。
創造が生んだ唯一無二の存在は、生まれる前に母に求めたことであり…
現在の私が捜し求めようと努めているものだ。
個人的にも大好きで、ドガと同じ国を代表する作家であるマルセル・プルーストの言葉を思い出さずにいられなかった。
「世界は一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家が出現したのと同じ回数だけ度々作り直されたのである」
現存した確かな人間を、<神>として崇めることに何のためらいを感じようものか?
私はこの『エトワール』を、この踊り子を、この女性を<天使>のようにすら感じたのだから。
いつまでも、そのまま…
ずっと舞っていてほしい。
軽やかに、優しく…
彼女はそのために生まれてきた、だから踊ることだけを考えていればいいのだろう。
これだけ素直な生き方をしているように思えるなんて、私たちの人生に皮肉さを感じないか?
それでは人は変わらない、そこに創造は生まれないはずだ。
たったひとり、自分だけのエトワールと出会ったとき、きっとこの作品を忘れることが出来るのだろう。
芸術の意義って、そういうものなんじゃないかと思う。
だから、大好きなドガの回顧展に行けて本当によかった。

これからもずっと心に残り続ける芸術家、エドガー・ドガ。
現実と夢を、現実のほうから捉えたらどう見えるのだろうか?
素直になることは困難だけど、不可能じゃないんだと思わせてくれる。