Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく -4ページ目

Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

 いつの頃からかはよくわからないですが、社会に出ると社交性の高さを求められるようになています。プレゼンテーションの技術、コミュニケーション能力の高さは長所とされています。

 しかしながら、私はそうした能力にあまり価値を見出せないでいました。なぜそうなのかとかも、論理的にはよく理解できないでいました。

 もう20年位前に「内向型人間」について書いた著書を買ったのを覚えています。内向型人間という言葉を知ったのはそれが最初でした。そして現在も私自身の内向性はまったく変わることがありません。一時期、外向性というかアピール力を追い求めて訓練したことはありますが、たいしてものになりませんでした。

 もう私は「内向型人間」というレッテルを貼られたままでいようと考えるようになりました。

 

私の経験から考える「内向型人間」とは、

 

1、周囲の現象をすべて自分自身と比較する。比較してから決断を下す。その決断を下してからしか、言動に移さない。

 

2、感覚を敏感に保つ。自分で得ることのできる情報、あらゆる情報を使って、あらゆる可能性を想定する。

 

3、得られない情報については想像して創り出す。いわゆる第6感、第7感を使う。

 

4、自分の言動の結果、相手や周囲がどう反応するのかを最優先する。自分自身の価値観の優先順位は3番目くらい。相手、周囲、自分の順番。

 

こうした1~4を実現させるためにエネルギーを消費するのが内向型人間なように思えます。自分の能力や感覚を高めることにエネルギーを費やしますから、周りから見るといつも疲れているように見えて、おとなしいと思われるのでしょう。

 

 ダイバーシティという多様性文化が見直されている時勢です。損得勘定だけでは良し悪しを判断できません。

 加えて、ただ論理だけに終始するだけではなく、非論理的な、いわば宗教的思想を重要視しなければ、物ごとの本質を見誤ります。

 なかなか内向型人間という存在は社会に求められませんが、だからとして時勢に安易に流されずに、アイデンティティを創れることが理想なのでしょう。