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Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

標題の"Thinking in Doors made Glasses."

「硝子戸の中から」を英訳してみたものです。

夏目漱石の言葉には毎日こころを揺さぶられています。

 

 今の私は、まさに硝子戸の中から世間を眺めている状態です。現代的に言うと、社会的ひきこもりですね。まったく外に出ていないわけではないので「社会的」と付けています。

 

 家族や友人というもの無しに生き続けることに、頻繁に疑問を抱きながら、ごまかすかのように生き続けています。この世が生きるに値するのかどうかという哲学的問いには、「No、否!」と答えることになるでしょう。

 

 漱石先生の「硝子戸の中から」を読んでみても、何を言いたいのかよく理解できません。イデオロギーもバラバラに散らばっていて、どれが漱石先生の本音なのかまったく見つけられません。そんな作品なのだと感じます。分裂思考とでも呼ぶのでしょうか。

 

 今の私がその分裂思考だから、余計にそのように感じられてしまうのかもしれません。「精神分裂病」と診断されたのはもう20年以上前のことになります。その診断が正しいのかどうかとか、長期の薬物療法で身体を壊してしまっている事実からすると、不幸以外の何物でもありません。しかしながら、過去にはさかのぼれず、損害を補償されることもないので、現実を硝子戸の中から眺めることしか選択肢として思い浮かばないだけです。

 

 しかし、この眺めから見えてくる光景は辛辣で、罵詈雑言に満ちたものが多すぎます。感覚過敏の私には刺激が強すぎるものであって、百害にしかなりません。世の中を眺めることさえも、劇薬となれば、私に残されるものは無くなります。

 

 迷い人 よをながめて きずいやし ひとりの夢に あらわれるもの