タテマエが正義 ピラトは手を洗う | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

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空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

「タテマエが尊重され、事実を禁忌として扱う」この社会には失望しかしません。

以下の例が正しいわけではないのですが、改めて思い知るキッカケになりました。

 

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Yahooニュースに掲載された毎日新聞配信の記事です。

今村雅弘復興相の発言に対しての抗議を伝える記事です。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170405-00000109-mai-soci

 

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 復興相への抗議は野党や被災者にとっては当然の行為なのですが、私は強い違和感を感じずにはいられません。なぜなのでしょうか。

 いつも似たようなことが起きているのですが、こうした抗議の矛先が妙な方向を向いているように感じるからです。

 発言したからいけないことなのだと。

 

 今回の抗議では復興相の発言が震災被災者に寄り添っていないという点が、記事では強調されています。(このあたりの記者と復興相とのやり取りにおける不自然さについては推測しかできませんが)

 

 原発被災地の問題が解決しないことは動かしがたい事実です。被災地に帰れない状況は変わりません。

 しかしその事実に触れることは禁忌であり、あくまで「解決できる」と言わなければならないのでしょうか。解決できない状態で「解決できる」と言うことは嘘ということになります。

 

 

 この場合の復興相はどのように発言すれば適切だったのでしょうか。

 おそらく最も良いのは「何も言わない」でしょうか。

 私はいつも思うのですが、失言を批判する時には「どのように発言すれば正しかったのか」ということも一緒に報道してもらいたいものです。

 このままでは「何も言わない」が正義になります。何も言わなければ何も分からないのですが、そうすれば批判されないので素晴らしい。この流れが最も恐ろしいです。

 

 私は今ではむしろ批判されるような失言のほうが耳当たりよく聞こえるようになってきています。D.トランプ大統領の英語が心地よく聞こえるのも同じ理由からのようです。

 

 When Pilate saw that he could prevail nothing, but that rather a tumult was made, he took water, and washed his hands before the multitude, saying, "I am innocent of the blood of this just person: see ye to it." (新約聖書 マタイによる福音書)

 

 ローマ総督のピラトはイエスの処刑に関与していないことを民衆(the multitude)に弁明してもムダだと考えて手を洗います。日本語では「足を洗う」という表現がありますが、関係を断つことを「手を洗う」と言う慣用表現の引用部分です。

 

 みんながみんな「see ye to it(貴方たちの責任だ)(yeはyouの古典的つづり)」と言い合う社会とは・・・。そして真実よりも民衆に寄り添うほうが正義なのに疑問を感じます。