健康保険無保険状態 | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

ふんばって 涙こらえて ボランティア さらなる追加 逃げねば死なん

 

 

 私は現在、健康保険は無保険状態です。

なぜかというと、公的機関から虐待行為を受けてしまったために、どうしても公的機関に近づくことができなくなってしまいました。

 恐怖と怒りの感情が強くなってしまい、建物内に入ることもできませんし、自治体職員らしき人を見かけるだけで緊張が走ります。

 

 そういうわけで、公的サービスの手続き関係が全くできなくなってしまいました。

ただ腑に落ちないのは、私ばかりが悪者にされていることです。

 

 そもそも違法な長時間労働、賃金不払い労働、パワハラもどきで私を虐待したのは公的機関のほうですが、そこから逃げるようにして辞職した私が悪いことになっています。周囲の関係者、つまりは医療機関やアパートの管理人は公的機関の味方をしています。

 いわく、「公的機関には日ごろからお世話になっているので言うことを聞かざるを得ない」ということです。

 

 それによりますます私は孤立に追い込まれています。もはや周囲はすべて敵だと捉えています。少なくとも味方ではありません。

 私が職場で使用していた私物はまとめて私のアパートの玄関ドアの前に置かれていました。それによって関係自体は切れていますが、私の感情的にはそれで何事もなかったことにはできないでいます。

 

 公的機関が違法なことをすることはこうした事態を招くのですが、その問題はほとんど意識されてきませんでした。問題視する人が少なかったことと、声を大にして批判することができなかったことが背景として考えられます。

 

 人材の使い捨てが当然の社会であるとはいえ、その先鋒が公的機関では、労働問題の解決に説得力が無くなります。

 

 電通社員の過労自殺に端を発した労働改善の動きですが、自殺者が出なければこの動きも生まれませんでした。もちろん以前から過労自殺者は数多く存在してきたのですが、たまたまメディアがクローズアップしたので問題が発展しました。

 

 今まで過労死が大きく取り上げられなかったのは、「うちの職場も同じようなものだ」という雰囲気が社会を牛耳っていたように感じます。

 「どうせ何も変わらない」と、労働者を諦めさせるという使用者側の戦略は鮮やかなものでした。詳しくは書きませんが、その戦略の内容はかなり狡猾で緻密でスキのないものでした。

 

 まさに前途有望な者が自殺するという犠牲を出すことでしたその牙城に穴をあけることができませんでした。

 それでもまだまだ解決には程遠く、ほとぼりが冷めるころを狙って、安易な改善だけで終わらせられるかもしれません。

 いろいろ議論したけど、現在の経済水準を維持するためには「仕方がない」で済まされようとしています。

 これ以上の犠牲がまだまだ必要なのでしょうか。