排除に対してどうしても怒りの感情を持ってしまいますが、
「なぜ排除や差別に対して私は怒っているのだろうか」というテーマで考えます。
排除や差別というものは歴史上常に存在してきました。それはつまり国家を運営していくためには排除や差別が不可欠だったことを物語っています。
すべての人々の平等を理想とする共産主義が実現された例はなく、社会主義国家も崩壊しています。
歴史上の社会主義国家が崩壊した理由は、社会主義を掲げていても一部の権力者が利権を独占した構造になり、国民が反発したことにあります。歴史上の社会主義国家は、その国家県立の思想が社会主義であっただけで、実際は社会主義を実行できませんでした。
現在は特にヨーロッパ諸国で国家の政策として社会主義に近い考え方が用いられています。福祉国家と呼ばれてきている北欧諸国は「大きな政府」で国民を支える方針に変えてきています。
「大きな政府」とは簡単にいうと、税金を多く徴収して国家の財源を増やし、公務員等の人材も増やし公共サービスを整備することで国民に還元していく行政のあり方です。
逆に「小さな政府」は現在の日本が目指しているもので、公務員を削減し公共サービスを減らすことで、税金による国民の負担を減らすことで、国民の生活を国民自身にまかせるという行政方針です。
さて話がそれましたが、差別や排除は社会主義が困難となり、資本主義・自由主義の国家運営では不可欠なものになりました。
格差を設けることで経済の発展を促す政策です。
多数の幸福のためには少数の犠牲はやむを得ないとすれば、国民を分断することができ、大規模な反乱を抑えることができます。
不満を持つのは少数派であり、多数派は幸福ならば、自然を多数派が少数派を抑圧して力を与えないようにすれば平和になります。
こうした一見して合理的な排除と差別の政治思想ですが、私が怒りを感じるのはなぜでしょうか。
当然ながら、上記における少数派に属しているからなのですが、「法の下の平等が守られていない」ことにあります。
法律は国民が守るべきものとして存在しています。立憲主義により、憲法によって抑制された権力者が法律を作成し国民を規制します。
その法律ですが、運用の仕方が不条理なのです。
国民の義務を課す法律については厳格に適用されるのですが、国民の権利を保障する法律については建て前上の適用で充分とされているからです。
それはつまり、国民の権利を保障する法律というものは権力を持つ者にとっては不利益なものであるからです。権利を保障する法律とは、「弱者を保護することが目的」だからです。
問題点として、
なぜ弱者を保護する必要があるのか、という議論が起きてしまうからです。
国民に義務を課す法律については問答無用で適用されて当然と考えられているのですが、弱者を保護する時はなぜか疑問を抱く人が出てくる。
それは「人が弱者になったのは自己責任ではないのか」と考えるからです。
本来、弱者になった理由は関係なく、法律が保護しているのです。無条件での保護でなければ権力者の介入により目的達成が阻害される可能性が高まるからです。
これは法理論の基本なのですが、その理解を社会が受け入れていない現状があります。
こうした不条理に私は怒りを感じているのでしょう。
「国の利益、国益優先のために国家の礎石である法を操作する」
これは実は危険な潮流です。
「全体主義」という言葉は現代社会ではほとんど使われていませんが、この思想を想起させる潮流です。
私がハンナ・アレントの書物をふと手に取ったのは、理由があるからなのでしょう。