善意の押し付け like justice... | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

「障害者のためになることをしよう」
 このような意味合いのキャッチフレーズはよく見たり聞いたりします。このような言葉が頻繁に使われるということは、障害者にとってまだまだ生きづらい社会であることを表現しています。ですから必要なことなのだと思います。
 
 しかし、時々このようなキャッチフレーズに対して違和感を感じることがあります。
私が見栄っ張りだからなのかもしれませんが、自分が「特別な配慮」が必要な人間なのだと自覚させられます。
 当然ながらこうした事象は日常的によく見受けられます。マイノリティー問題に限ったことではありません。しかしモノには程度というものがあって、あまりにも特定の人々に対して繰り返し強調されると福祉用語でいうスティグマ(劣等感情)を強く生じさせることになります。
 特別な配慮が必要なのは確かなことですし、もしそうした配慮がまったくなされなかったら、それはそれで不満を感じることになるでしょう。我ながら実にワガママな気もします。
 
 事象(出来事)に対して複眼的思考で相対することは非常に重要なことですが、その事象をほかの人にも分かるように説明する際には、複眼的思考をそのまま説明してもその人が主張したいことが何なのか理解できなくなります。
 私はいつも陥るパターンではあります。
 少し整理してみましょう。
 
 現在の世界的な障害者福祉観を見てみましょう。
 「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」という条約があります。2006年12月に国際連合で採択され、2014年に日本も批准しています。
 条約というものは法学的に法律よりも上位にあります。国際的な合意になります。
条約に批准するためには国内法をその条約に沿うように整備しなくてはいけません。そのため日本の批准までに時間がかかっていることになります。
 
 この障害者権利条約において、「障害」というものは社会環境が生み出していると考えられています。社会環境が改善されることによって、障害による不当な扱いは無くなり、差別が解消されるという考え方です。
 障害の中には先天的に生じるものも多いと言われていますが、現在のところ人間を遺伝的に操作することは倫理に反しますし、生殖過程においては解明されていないことも数多くあるようです。
 そのため障害そのものを消し去るのではなく、差別している社会環境を改善しようという姿勢がこの条約の骨子です。
 日本でも「合理的配慮」という言葉はかなり周知されてきました。
 
 私が違和感を感じる正体は、合理的配慮が社会に歓迎されていないのではないかという負い目であるようです。
 今日のブログタイトルにある「善意の押し付け」になっているのではないかという懸念です。
 
 「善意」という言葉を英訳してみようと考えたのですが、よい単語が思い浮かびませんでした。 justice(正義)と同義かなと思ったのですが、なんとなく違う感じがします。
 だから「like justice...」正義のようなもの・・・という表現にしてみました。英語らしくない表現ではあります。
 
 「障害者のためになることをしよう」というような、普段から正しいと信じて使用している言葉や信念、思想でも使い方によっては不信感を煽ることもあるということです。
 
 ゆきかきを すすめてきよく おもひたる ゆきあそびする こどものなかで
 
先週から雪が降ったので。