暇人草

暇人草

暇人がつれづれに世の中を観察する記録。
文化とは暇人によって支えられているのではないか、という仮説のもとに書いている。

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労働時間の長さには、価値があるのだろうか。


長く働いていること、
忙しくしていること、
それ自体に価値があるように扱われることが多い。


けれど、それは本当にそうなのだろうか。


私の夫は、完全裁量制で働いている。

極端に言えば、
一分でも仕事をすれば、その日は出勤扱いになる。


もちろん、
それで成立する仕事ばかりではない。

誰にでもできる仕事ではないからこそ、
その形が許されているのだと思う。


実際、夫の関わっている仕事でトラブルが起きれば、
新聞に載ることもあるし、ニュースになることもある。

表に出ることは少ないが、
責任の重い業務であることは確かだ。


一方で、リモートで働いている日は、
洗濯機を回しながら仕事をしていることもある。


このとき、
「仕事をしているのか、家事をしているのか」
という区別はあまり意味を持たない。


仕事か家事か、
どちらか一方に時間を切り分ける前提そのものが、
すでに古いのではないかと思う。


私は最低限の良心と良識があるので、
夫を「スペックが高い」といった言い方はしない。

彼は機械ではないからだ。


成果ではなく時間で評価する考え方では、
こうした働き方はうまく説明できない。


しかし実際には、
短い時間でも価値の高い仕事は存在するし、
長い時間をかけても価値が生まれない場合もある。


労働時間の長さと価値は、
必ずしも一致しない。


むしろ重要なのは、
どれだけの時間働いたかではなく、
何を生み出しているのか、なのではないか。


そう考えると、
「長く働いていること」に価値を見出す前提自体を、
一度見直してもいいのかもしれない。

暇であることは、なぜか否定的に語られがちだ。
「暇そうでいいよね」と言われるとき、
そこには少しの軽視が混じっている。
怠けている、役に立っていない、
価値が低い――
そんなニュアンスが含まれていることが多い。
けれど、そもそも暇の何が悪いのだろうか。
多くの人は、
忙しさに価値があると信じている。
予定が埋まっていること、
時間に追われていること、
やることが多いこと。
それらを「充実」と呼び、
逆に余白のある状態を「暇」と呼んで切り捨てる。
けれど、忙しさは本当に価値なのか。
忙しい状態というのは、
言い換えれば「余白がない状態」でもある。
突発的なことに対応する余裕がない。
新しいことに手を出す余地がない。
考える時間も持てない。
一方で、暇であるということは、
余白があるということだ。
何もしていない時間があるというより、
「何かを選べる状態にある」とも言える。
私は基本的に暇である。
何もなければ布団とお友達だし、家から出ない。
けれど、その暇があるからこそ、
急に必要になったことに対応できる。
頼まれごとや、
その場でしかできないことに動ける。
暇な私がいるからこそ、
所属している先(有償ではない)の行事も、
滞りなく開催できているのだと思う。
予定が詰まっていないというのは、
単なる空白ではなく、
機動力でもある。
それでもなお、
人は「忙しさ」を語りたがる。
どれだけ大変か、どれだけ時間がないか、
どれだけ頑張っているか。
それを共有することで、
安心し、納得し、価値を感じる。
だからこそ、
暇であることは目立つ。
そして時に、
理解されにくく、
軽く扱われる。
けれど、
暇であることは欠陥ではない。
余白があること、
選択できること、
必要なときに動けること。
それらはむしろ、
機能としての強さでもある。
そもそも暇の何が悪いのか。
その問いに対して、
はっきりとした答えを持たないまま、
ただ忙しさだけが肯定されているように思う。
「専業主婦は暇だ」と言われることがある。
けれど、その「暇」とは何を指しているのだろうか。
時間があることなのか、
何もしていないことなのか、
それとも外から見て分かりやすい労働をしていないことなのか。
実際のところ、
暇で、かつ余裕のある人がいるからこそ、
成り立っているものも多い。
よろずの習い事。
地域のボランティア。
昼間のカフェ。
美術館。
平日のライブ。
これらは、
「平日の昼間に動ける人」が一定数いることで成立している。
とはいえ、私は基本的には暇である。
何もなければ布団とお友達だし、家から出ない。
けれどその「暇」があるからこそ、
急に発生する仕事(無償)にも対応できている。
予定が詰まっていないから動ける、という側面もある。
もし全員が同じ時間に働き、
同じ時間にしか動けない社会であれば、
こうした場は成立しない。
つまり「暇」と呼ばれる時間は、
単なる余剰ではなく、
社会の中で機能している時間でもある。
また、
その時間をどう使うかは個人の選択でもある。
何もせず過ごすこともできるし、
学びや活動に充てることもできる。
重要なのは、
その時間をどう使っているかであって、
「暇かどうか」というラベルではない。
専業主婦=暇、という単純な図式ではなく、

→時間を持っている状態とは何か


→ その時間をどう使えるか


そちらの方が、よほど実態に近いのではないだろうか。

私は出身校の同窓会役員をしている。

全卒業生のために、行事を企画し、運営している。


役員の中には、仕事を持ちながら参加している人もいる。

それぞれ本業があり、その合間に時間を作って関わっている。
仕事を持つ人も、主体的に折り合いをつけてくれている。


私は、そこまで忙しくない。

だから、時間を使える。


この違いは、能力の差というよりも、
使える時間の差なのだと思う。


ただ、時間の使い方もまた、一つの能力である。


土曜日に予定が入ることも多く、
当然、家族の理解も必要になる。


ボランティアは、やる気だけでは成立しない。

時間と余力がなければ、続かない。


だから、暇であるという状態は、
意外と重要な前提になる。


私はその時間を、同窓会の活動に使っている。


結果として、動ける場面は多くなる。

調整をしたり、下見に行ったり、
細かいところを詰めたりする。


それは「活躍」と言えるのかもしれないが、
実際には、時間があるから動けているだけでもある。


つまりこれは、能力というよりも、
どれだけ主体的に時間を使っているか、という話なのだと思う。


忙しさの中でやりくりするのも一つの形だが、
余白があるからこそできる関わり方もある。


暇であることは、受動ではない。


何に時間を使うかを、自分で選べる状態である。

忙しいことは正義なのか。


私は暇な時間を、制作やボランティアに使っている。
それはそれで、大変有意義だと自信を持っている。


世の中では、忙しいことが良いことのように扱われる。

予定が埋まっていること、
常に何かに追われていること、
休む暇もないこと。


それらは、努力や充実の証のように見える。


だが、それは本当に価値なのだろうか。


忙しさは分かりやすい。
外から見ても説明がつく。

一方で、余裕のある時間は説明しづらい。

何もしていないように見えたり、
無駄に過ごしているように思われることもある。


しかし、実際にはその時間の中で、

何をするかを自分で選び、
どこまで動くかを自分で決めている。


制作に使うこともあれば、
誰かのために時間を使うこともある。

何もしない時間を、そのまま受け入れることもある。


忙しさに流されるのではなく、
時間の使い方を自分で選んでいるという点では、
むしろ主体的なのかもしれない。


忙しいことは、状態の一つである。

だが、それ自体が正義とは限らない。


何に時間を使うのか、
どこまで使うのか。

それを自分で決められることの方が、
ずっと重要なのだと思う。