後楽園ホールの控え室で、斎木龍二はじっと座っていた。そろそろセミファイナルの試合の決着がつく頃だった。
備え付けのモニターから聞こえる実況と会場の歓声以外、部屋に聞こえる音はほとんどない。斎木は傍らにいるジムの会長でトレーナーの中原健二に声をかけるでもなく、ただ黙々と準備を整える。
バンデージを巻き終えてグローブをはめると、おもむろに立ち上がって入念にシャドーを繰り返す。それがいつもの斎木のスタイルだ。
順調と言えば順調なボクサー人生だった。東日本では新人王を獲得。全日本新人王は逃したものの、その後の再起戦では鮮やかなK.O.で再起を果たした。
『最強後楽園』日本タイトル挑戦権獲得トーナメントにおいて優勝を果たし、チャンピオンカーニバルへの挑戦権を獲得した。
日本王者への初挑戦は残念ながらドロー判定となり涙をのんだが、翌年に再度挑戦し、ついに念願の日本王座を手にしたのだった。
その後3度の防衛に成功。プロボクサーになる事を決意するのが遅かった斎木にとって、これは自身も思ってもみなかった素晴らしい成績だった。
父親もプロボクサーだった。斎木は幼い頃に、何度か父の試合を見ている。が、父親は平凡なボクサーだった。14戦して9勝5敗。最高位は日本ランク8位だった。
打たれて顔を腫らし、時には病院に送られる事すらある父親を、斎木は尊敬こそしていたものの、自らが同じ道に進もうとは考えてはいなかった。
転機は22歳の頃にやってきた。当時肥満ぎみだった斎木は、中原ジム所属のプロボクサーだった高校時代の後輩に
「ダイエットにとても効果がある」
と勧められてジムに通い始めた。
中原ジムは練習が厳しいという事で有名だった事もあり、キツいプログラムをこなすうちに斎木の体は見違えるように引き締まり、また、父親譲りのリーチの長さが会長の中原の目に止まり、プロへの転向を勧められたのだ。
当初は当惑した斎木だったが、父親が果たせなかった王者への夢を引き継ぎたいという思いは、なんとなく日々を過ごしていた斎木の心に、灯火となって燃え上がった。
ジムに入門して1年後、プロテストに合格した斎木は、デビュー戦を1R1分5秒でK.O.勝利という鮮烈なデビューを飾ったのだった。
その後の戦績は先のとおりだ。ただ、斎木は、デビューから5年。既に28歳になっていた。
両親は一度も斎木の試合を見にきた事がなかった。ボクサーになった事を父親は喜びはしたが
「お前が試合をしている姿を見るのは、何か怖くてな」
父はそう言って、テレビではともかく会場に足を運ぶ事はなかった。
母は試合の事よりも、斎木の体の事が心配だった。試合の後に電話をすると必ず
「それで、お前の体は大丈夫なのかい?」
勝っても負けても、そうとしか聞いてこなかった。しかし、斎木はそんな両親の気持ちを良く理解していた。
ボクシングというスポーツがどういうものなのかを、父はおそらく斎木よりも良く知っているのだろう。いや、それはむしろ思い知らされていると言う方が正しいのかもしれない。
母については、息子が対戦相手に殴られる姿を見るのも、勝っても負けても顔を腫らしている息子を見るのも辛いのだろう。思えば、父の現役時代も母は試合を見に来た事が無いような気がする。
まして、プロボクサーとしては遅くからキャリアを積み始めた我が子を、どういう気持ちで見てよいのか判断がつかないのだろう。いずれにしても、両親にとって自分がボクシングを続けるのは複雑なものなのだろうと斎木は思う。
「そろそろ時間だ」
そう声をかけてきた中原の顔を見つめ、斎木は無言で頷いた。ガウンをまといながら斎木は
「とっつぁん・・・」
中原に声をかける。
「どうした斎木?」
会場に向かう準備をしていた中原が聞き返すと
「俺、今日の試合で勝っても負けても引退するよ・・・」
つぶやくようにそう言った。
挑戦者の北沢英二は、ライト級の若い選手達の中でも一際目立つ存在だった。コンパクトに構える典型的なインファイターだが、アウトボクサーをカモとする珍しいタイプのボクサーだ。
その豪打はデビュー当時から「破壊力は既に世界クラス」といわしめるほどのもので、豪打と威圧感で相手をコーナーに追い込み、脱出を狙って相手が放つ左フックをカウンターで狙い打ってKOする戦法を得意とした。
アウトボクサータイプの選手が戦慄する試合展開をするとして注目を集めているが、斎木はその戦法自体よりもカウンターの上手さを高く評価し、同時に警戒していた。
このタイトルマッチについて、多くの人々は、デビュー以来「華麗」と表される斎木の見事なアウトボクシングと、アウトボクサーを仕留めるのが上手いパワーファイターの北沢の戦いを闘牛に例え、「猛る若牛といかに闘うのか」と囁きあった。が、中には逆に北沢を仕留め役とみなしているファンも勿論少なくなかった。
試合は、人々の予想に反した展開になった。1R開始直後から、本来スマートなアウトボクシングを身上とする斎木が、むしろ前に出て挑戦者と打ち合ったのだ。予想だにしなかったチャンピオンの戦法に、挑戦者の北沢は一瞬たじろいだ。それがこのラウンドの全てだった。
斎木の左ジャブは予備動作がほとんどなく最短距離で相手にヒットする。そのため、アウトレンジから放たれた場合でも避けるのは非常に困難だ。そんな斎木のジャブを短距離で避けることなど、並のボクサーにはほとんど不可能に近い。
並のボクサーではない北沢もその例に漏れず、斎木のジャブをほぼ全て被弾し、全身の体重と力のほとんどを込めて打ち込んでくる右ストレートをまともにくらって二度もダウンを喫したのだった。
しかし、2Rに入るとその様相は一変した。1R時と同じように果敢に攻め立てるチャンピオンに対し、本来のスタイルであるファイタースタイルで迎え撃つ挑戦者は、まるで別人のように攻撃的に斎木の急所を攻め続ける。やはりインファイトはインファイターの北沢に分がある。たまらず斎木が、突進してくる北沢を右へ左へと躱す戦法に出たが、いつの間にかロープ際へ追い込まれ、脱出を狙って放った左フックをカウンターで狙い打たれてダウンを奪われた。
カウント9でなんとか立ち上がったところで、ラウンド終了のゴングが鳴った。斎木はゴングに救われた恰好だった。
「最後のは驚いたな。なぜ分かっていてあんな事をやったんだ?」
自コーナーに戻った斎木に中原は問わずにはいられなかった。
「奴のパンチのタイミングを掴むには、どうしても一発もらっておかなきゃならなかったんだ。しかし、まさかあれほどまでとはなぁ・・・」
天をあおぐようにして、疲れたような口調で斎木は答えた。
「そうだったのか・・・」
「それにしてもたいした奴だ。いつの間にロープ際に追い込まれたのか、正直わからなかったよ。それにあのカウンター。分かってて軌道を避けたのにあの威力だ。恐ろしいなぁ。最近の若いやつは」
『セコンドアウト』の声に応じて立ち上がりながら、斎木は中原にこう言った。
「おやっさん。このラウンドだ。結果はどうあれ、このラウンドでケリがつくっ!」
そう言うと、まだダメージの残る体を奮い立たせて、斎木はゆっくりとリングの中央へと歩いていった。
タイトルマッチが終わって2ヶ月が過ぎたある日、斎木龍二は首都高速湾岸線を羽田空港に向かって車を走らせていた。
(今でも信じられんな・・・)
あの試合の壮絶な結果を思い出しながら、斎木はそれまで何度も思った事を今更ながら考えた。
3Rの開始と同時に、斎木は普段の自分のスタイルで北沢と闘った。メキシコ人ボクサーがするような、肩を入れて拳一つ分伸びる独特の左ジャブで相手を牽制しつつ、隙があれば相手の懐に飛び込んで右ストレートを喰らわせる戦法である。むろんそれはブラフだった。
いつものアウトボクサースタイルで闘えば、北沢は2R終了間際の戦法でやってくるに違いなかった。なにせ、当の斎木でさえ
(ゴングに救われた・・・)
と思うほどに、北沢の攻めは完璧だった。
予想通り斎木をコーナーに追い込んだ北沢は、斎木の左フックを迎撃するようにカウンターを放ってきた。その瞬間斎木は左腕を止め、最も得意とするジョルトブロー、全体重を右拳に載せた最強の一撃をカウンターで放ったのだ。
だが、斎木には2Rでもらった北沢のパンチのダメージが抜けきらずに残っていた。右足の踏ん張りがきかないのだ。それでも強引に放ったパンチは、北沢の右フックが斎木の顔面をとらえるのと同時に北沢の顔面にヒットした。クロスカウンターからの相打ちであった。
気がついた時には控え室のベンチで寝かされていた。それまでのふわふわした気持ちよさはなくなり、その代わり頭も体も凄まじく痛む。そんな中で斎木は、両者ノックダウンによる引き分けにより、王座防衛に成功したのだと聞かされた。感無量だった。
翌日、病院で精密検査を受けたあとに引退を発表。斎木のプロボクサー生活はここに終焉を迎えたのだ。
引退後にすぐ自動車の運転免許を取得し、今日は父親の引退以来始めて上京する両親を車で迎えに行くのだ。
しばらくの休養のあと、斎木は中原ジムでトレーナーを務める事が決まっている。斎木の引退を受けて今は村島とかいう選手が暫定王座を獲得し、斎木の引退試合の相手となった北沢が復帰戦でそのタイトルを再び狙う事が決まっているという。
そうした諸々の喧騒を全てうしろに置き去りにして、斎木は空港に向かって車を走らせるのだった。

初心者の始めての一本からプロユースの逸品までっ!
備え付けのモニターから聞こえる実況と会場の歓声以外、部屋に聞こえる音はほとんどない。斎木は傍らにいるジムの会長でトレーナーの中原健二に声をかけるでもなく、ただ黙々と準備を整える。
バンデージを巻き終えてグローブをはめると、おもむろに立ち上がって入念にシャドーを繰り返す。それがいつもの斎木のスタイルだ。
順調と言えば順調なボクサー人生だった。東日本では新人王を獲得。全日本新人王は逃したものの、その後の再起戦では鮮やかなK.O.で再起を果たした。
『最強後楽園』日本タイトル挑戦権獲得トーナメントにおいて優勝を果たし、チャンピオンカーニバルへの挑戦権を獲得した。
日本王者への初挑戦は残念ながらドロー判定となり涙をのんだが、翌年に再度挑戦し、ついに念願の日本王座を手にしたのだった。
その後3度の防衛に成功。プロボクサーになる事を決意するのが遅かった斎木にとって、これは自身も思ってもみなかった素晴らしい成績だった。
父親もプロボクサーだった。斎木は幼い頃に、何度か父の試合を見ている。が、父親は平凡なボクサーだった。14戦して9勝5敗。最高位は日本ランク8位だった。
打たれて顔を腫らし、時には病院に送られる事すらある父親を、斎木は尊敬こそしていたものの、自らが同じ道に進もうとは考えてはいなかった。
転機は22歳の頃にやってきた。当時肥満ぎみだった斎木は、中原ジム所属のプロボクサーだった高校時代の後輩に
「ダイエットにとても効果がある」
と勧められてジムに通い始めた。
中原ジムは練習が厳しいという事で有名だった事もあり、キツいプログラムをこなすうちに斎木の体は見違えるように引き締まり、また、父親譲りのリーチの長さが会長の中原の目に止まり、プロへの転向を勧められたのだ。
当初は当惑した斎木だったが、父親が果たせなかった王者への夢を引き継ぎたいという思いは、なんとなく日々を過ごしていた斎木の心に、灯火となって燃え上がった。
ジムに入門して1年後、プロテストに合格した斎木は、デビュー戦を1R1分5秒でK.O.勝利という鮮烈なデビューを飾ったのだった。
その後の戦績は先のとおりだ。ただ、斎木は、デビューから5年。既に28歳になっていた。
両親は一度も斎木の試合を見にきた事がなかった。ボクサーになった事を父親は喜びはしたが
「お前が試合をしている姿を見るのは、何か怖くてな」
父はそう言って、テレビではともかく会場に足を運ぶ事はなかった。
母は試合の事よりも、斎木の体の事が心配だった。試合の後に電話をすると必ず
「それで、お前の体は大丈夫なのかい?」
勝っても負けても、そうとしか聞いてこなかった。しかし、斎木はそんな両親の気持ちを良く理解していた。
ボクシングというスポーツがどういうものなのかを、父はおそらく斎木よりも良く知っているのだろう。いや、それはむしろ思い知らされていると言う方が正しいのかもしれない。
母については、息子が対戦相手に殴られる姿を見るのも、勝っても負けても顔を腫らしている息子を見るのも辛いのだろう。思えば、父の現役時代も母は試合を見に来た事が無いような気がする。
まして、プロボクサーとしては遅くからキャリアを積み始めた我が子を、どういう気持ちで見てよいのか判断がつかないのだろう。いずれにしても、両親にとって自分がボクシングを続けるのは複雑なものなのだろうと斎木は思う。
「そろそろ時間だ」
そう声をかけてきた中原の顔を見つめ、斎木は無言で頷いた。ガウンをまといながら斎木は
「とっつぁん・・・」
中原に声をかける。
「どうした斎木?」
会場に向かう準備をしていた中原が聞き返すと
「俺、今日の試合で勝っても負けても引退するよ・・・」
つぶやくようにそう言った。
挑戦者の北沢英二は、ライト級の若い選手達の中でも一際目立つ存在だった。コンパクトに構える典型的なインファイターだが、アウトボクサーをカモとする珍しいタイプのボクサーだ。
その豪打はデビュー当時から「破壊力は既に世界クラス」といわしめるほどのもので、豪打と威圧感で相手をコーナーに追い込み、脱出を狙って相手が放つ左フックをカウンターで狙い打ってKOする戦法を得意とした。
アウトボクサータイプの選手が戦慄する試合展開をするとして注目を集めているが、斎木はその戦法自体よりもカウンターの上手さを高く評価し、同時に警戒していた。
このタイトルマッチについて、多くの人々は、デビュー以来「華麗」と表される斎木の見事なアウトボクシングと、アウトボクサーを仕留めるのが上手いパワーファイターの北沢の戦いを闘牛に例え、「猛る若牛といかに闘うのか」と囁きあった。が、中には逆に北沢を仕留め役とみなしているファンも勿論少なくなかった。
試合は、人々の予想に反した展開になった。1R開始直後から、本来スマートなアウトボクシングを身上とする斎木が、むしろ前に出て挑戦者と打ち合ったのだ。予想だにしなかったチャンピオンの戦法に、挑戦者の北沢は一瞬たじろいだ。それがこのラウンドの全てだった。
斎木の左ジャブは予備動作がほとんどなく最短距離で相手にヒットする。そのため、アウトレンジから放たれた場合でも避けるのは非常に困難だ。そんな斎木のジャブを短距離で避けることなど、並のボクサーにはほとんど不可能に近い。
並のボクサーではない北沢もその例に漏れず、斎木のジャブをほぼ全て被弾し、全身の体重と力のほとんどを込めて打ち込んでくる右ストレートをまともにくらって二度もダウンを喫したのだった。
しかし、2Rに入るとその様相は一変した。1R時と同じように果敢に攻め立てるチャンピオンに対し、本来のスタイルであるファイタースタイルで迎え撃つ挑戦者は、まるで別人のように攻撃的に斎木の急所を攻め続ける。やはりインファイトはインファイターの北沢に分がある。たまらず斎木が、突進してくる北沢を右へ左へと躱す戦法に出たが、いつの間にかロープ際へ追い込まれ、脱出を狙って放った左フックをカウンターで狙い打たれてダウンを奪われた。
カウント9でなんとか立ち上がったところで、ラウンド終了のゴングが鳴った。斎木はゴングに救われた恰好だった。
「最後のは驚いたな。なぜ分かっていてあんな事をやったんだ?」
自コーナーに戻った斎木に中原は問わずにはいられなかった。
「奴のパンチのタイミングを掴むには、どうしても一発もらっておかなきゃならなかったんだ。しかし、まさかあれほどまでとはなぁ・・・」
天をあおぐようにして、疲れたような口調で斎木は答えた。
「そうだったのか・・・」
「それにしてもたいした奴だ。いつの間にロープ際に追い込まれたのか、正直わからなかったよ。それにあのカウンター。分かってて軌道を避けたのにあの威力だ。恐ろしいなぁ。最近の若いやつは」
『セコンドアウト』の声に応じて立ち上がりながら、斎木は中原にこう言った。
「おやっさん。このラウンドだ。結果はどうあれ、このラウンドでケリがつくっ!」
そう言うと、まだダメージの残る体を奮い立たせて、斎木はゆっくりとリングの中央へと歩いていった。
タイトルマッチが終わって2ヶ月が過ぎたある日、斎木龍二は首都高速湾岸線を羽田空港に向かって車を走らせていた。
(今でも信じられんな・・・)
あの試合の壮絶な結果を思い出しながら、斎木はそれまで何度も思った事を今更ながら考えた。
3Rの開始と同時に、斎木は普段の自分のスタイルで北沢と闘った。メキシコ人ボクサーがするような、肩を入れて拳一つ分伸びる独特の左ジャブで相手を牽制しつつ、隙があれば相手の懐に飛び込んで右ストレートを喰らわせる戦法である。むろんそれはブラフだった。
いつものアウトボクサースタイルで闘えば、北沢は2R終了間際の戦法でやってくるに違いなかった。なにせ、当の斎木でさえ
(ゴングに救われた・・・)
と思うほどに、北沢の攻めは完璧だった。
予想通り斎木をコーナーに追い込んだ北沢は、斎木の左フックを迎撃するようにカウンターを放ってきた。その瞬間斎木は左腕を止め、最も得意とするジョルトブロー、全体重を右拳に載せた最強の一撃をカウンターで放ったのだ。
だが、斎木には2Rでもらった北沢のパンチのダメージが抜けきらずに残っていた。右足の踏ん張りがきかないのだ。それでも強引に放ったパンチは、北沢の右フックが斎木の顔面をとらえるのと同時に北沢の顔面にヒットした。クロスカウンターからの相打ちであった。
気がついた時には控え室のベンチで寝かされていた。それまでのふわふわした気持ちよさはなくなり、その代わり頭も体も凄まじく痛む。そんな中で斎木は、両者ノックダウンによる引き分けにより、王座防衛に成功したのだと聞かされた。感無量だった。
翌日、病院で精密検査を受けたあとに引退を発表。斎木のプロボクサー生活はここに終焉を迎えたのだ。
引退後にすぐ自動車の運転免許を取得し、今日は父親の引退以来始めて上京する両親を車で迎えに行くのだ。
しばらくの休養のあと、斎木は中原ジムでトレーナーを務める事が決まっている。斎木の引退を受けて今は村島とかいう選手が暫定王座を獲得し、斎木の引退試合の相手となった北沢が復帰戦でそのタイトルを再び狙う事が決まっているという。
そうした諸々の喧騒を全てうしろに置き去りにして、斎木は空港に向かって車を走らせるのだった。

初心者の始めての一本からプロユースの逸品までっ!