曲聴けます。


さよなら


歌:かりゆし58  詞・曲:前川真悟



さよなら ただただ愛しき日々よ

ずっと忘れないだろう 僕は君を


すり減った靴底 夕暮の街 仰ぎ見た空 茜空

日に焼けた仲間の顔 蘇る


何かが起きそうな兆しもなく 誰かに変われるはずもなく

当たり前のように通り過ぎた毎日


離ればなれになることは 不自然なことじゃない

頭で分かってても 心が君を想ってしまうよ


さよなら ただただ愛しき日々よ

サクラ舞い散る春の 涙はとめどなく


終電間際 地下鉄のホームに響くアナウンス

奥歯で噛みしめる孤独な夜


何も言わず吹き抜けた風 ビルの隙間に細い月

当たり前のように繰り返しの毎日


懐かしい歌が聴こえてきた 思い出が駆けめぐる

移りゆく季節を刻々と刻む時計の針は止まらないけれど


命は始まった時から ゆっくり終わっていくなんて信じない

ぼくが生きる今日は もっと生きたかった誰かの明日かも知れないから


言葉に出来ない想いは 涙にかたちを変えてこぼれおちるのでしょう


さよなら ただただ愛しき日々よ

二度と戻らぬ日々よ「ありがとう」

さよなら ただただ愛しき日々よ

ずっと忘れないだろう 僕は君を


失ったページはどれくらい?また夜がやって来て

残された余白はどれくらい?また朝は訪れる



さよなら/かりゆし58


おもかげ 感・想・文・FRAGILE


山崎まさよしの「ONE MORE TIME, ONE MORE CHANCE」の歌詞で、


いつでも捜しているよ  どっかに君の姿を

向いのホーム 路地裏の窓

こんなとこにいるはずもないのに…


というのがあります。


大切な人の「おもかげ」を追いかける男の気持ちを歌っている素敵な曲です。


喪失は、人生にとって避けては通れない、辛く苦しく悲しいやるせない経験です。


いなくなってしまった人というのは、いないということで逆に存在感を増すものです。


いないという事実を受け入れられず、大切な人の「おもかげ」を探してしまうし、幻影を見ては追いかけてしまう。

ふたりで過ごした場所など、いたるところに思い出がポスターのように貼りついていて、そこを通ったりするたびに記憶に苦しみ、胸が痛む。

何かできたんじゃないだろうか。ふり返って後悔して、自分を責めてしまうこともある。過去を美化して現実に踏み出せなくなったりもする。

人は記憶に思い出に閉じ込められてしまう生きものです。


僕は「おもかげ」という言葉を今回ピックアップしました。

『さよなら』の歌詞から「おもかげ」という言葉が浮かんだからです。

「おもかげ」は、ご存じの通り「面影」とか「俤」のことです。

「おもかげ」とは何かといえば、ある物事などへの「想い」から立ちあがり、脳裡に浮かぶ記憶映像のようなもの。


思うことで見えてくる人や景色や物や出来事、思い出。

微笑ましいおもかげもあれば、胸が痛むおもかげもあります。


「おもかげ」は、ないのにあると感じさせるわけです。

ないからこそ人はあるということを強烈に意識してしまう。


枯山水のように、水を使わずに石などで水を感じさせる庭は、そうした人間の心理から出来たものと言えると思います。




だいぶ前の出来事ですが、「おもかげ」ということでひとつ簡単に紹介すると、

祖父の命日。集まった親戚の中の一人のおばさんがこんなことを言いました。


「今日ここに来る途中の駅で見かけたのよ、おじいちゃんを。後ろ姿だったけど、背格好とか歩き方なんかそっくりで、追いかけようと思ったけど、見失っちゃった」


冗談っぽく笑って話していましたが、一瞬でも会えたかのような体験ができたことが嬉しそうでした。


おじいちゃんに姿かたちが似た人がいて、その人におじいちゃんの「おもかげ」を見たというエピソードです。



人間というのは、自分の記憶を通して世界を見ているということ、ひとつの現実をみんなが同じように見ているわけではないこと、いなくなった人との向き合い方も人それぞれということを改めて気付かされました。



自分の過去とか別れた人たちのこと、二度と取り戻せない出来事がふっと脳裡に浮かんでくる、「おもかげ」を連れてくる。寂しさや切なさなどの感情とともに。



そんな「おもかげ」は、二度と戻らない移ろいゆく人生にもたらされる影のようです。



考えてみれば、人は日々さよならをして生きています。

さよならをしてきたすべてのものによって、今の自分はつくられている。


さよならによって生じた影を引き連れて人は生きている。そうした影があるからこそ、光を愛しく感じたり、意味を見い出せたりする。影を知るからこそ、光を理解することができる。自分の弱さを知るからこそ、他者の存在の必要性を知るように。


「おもかげ」は、生きてきた証。


「おもかげ」を抱えるフラジャイルな存在だからこそ、人は人を思いやることが出来るのではないか。

そんな風に思ったりするのです。


さよならの数だけ、人は「在ること」を愛しく感じられる。








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曲聴けます。


風に吹かれて


詞・曲:宮本浩次


輝く太陽はオレのもので

きらめく月は そうお前のナミダ

普通の顔した そう いつもの普通の

風に吹かれて消えちまうさ


あたりまえに過ぎ行く毎日に

恐れるものなど何もなかった

本当はこれで そう本当はこのままで

何もかも素晴らしいのに


明日には それぞれの道を

追いかけてゆくだろう

風に吹かれてゆこう


さよなら 今日の日よ

昨日までの優しさよ

手を振って旅立とうぜ

いつもの風に吹かれて


見慣れたいつもの町を過ぎれば

素知らぬ顔 そびえるビルの角

遠くで聞こえる そう遠くで聞こえる

町の音に耳をかせば


悲しみは 優しいふりして

この町を包むだろう

おまえに会いにゆくまで


さよなら 今日の日よ

昨日までの優しさよ

手を振って旅立とうぜ

いつもの風に吹かれて


見慣れてるこの部屋も

俺達の優しい夢も

手を振って旅立とうぜ

いつもの風に吹かれて




感・想・文・FRAGILE



今日は昨日に続いてエレカシです。


「花に嵐の喩えもあるさ。さよならだけが人生だ」という井伏鱒二の言葉がありますが、確かに終わりのないことはないし、時が過ぎていくという事自体がさよならといえるしね。

意識してない「さよなら」の連続なんですよね。


さよならを意識した瞬間、別れのとき、いろんなことが浮かんできます。

そして、失う事で存在はより強められたりする。こんなにも自分の中にこの人はいたのかと思い知らされる。


そういう意味でも、さよならは、大切な気付きをもたらしてくれるものです。


さよならをした数だけ、余計な事はいらないと思えてくる。


いつの間にやら大切な人との日々も、人は容易く慣れて当たり前にしてしまうからこそ、「さよなら」を意識して考えることも大事なことなんだよね。


終わります。

曲聴けます。


夢のかけら


詞・曲:宮本浩次




夢のかけら 僕らは

いつまでも追いかけるのさ


君はネコで 俺は嘘つき

破裂しそうな夢の狭間で

ずれてるようなオレの口癖

揺れてる君の横顔


傷つけあったいつもの部屋

上手な嘘だけじゃ

どうしようもないのさ

どんなに抱きしめても


乾いた喉 冷たい水を

ぐっと飲んで癒したけれど

右手でそっと髪をかきあげ

さめてる君のまなざし


過ぎ去った日々を

胸に抱き働いてる


夢のかけら 僕らは

いつまでも追いかけるのさ


ふとしたひょうし 君の言葉が

胸に刺さって抜けなくなるよ


愛してるとつぶやいてみた

部屋に響いたけれど


癒しあったいつもの部屋

小さな物語

どうしようもないのか

どんなに愛してても


過ぎゆく季節も

ため息の日々も

君の笑顔だけ

胸に抱き働いてる


夢のかけら 僕らは追いかけるのさ

今なら僕は言える

君のこと愛してると




欠片  感・想・文・FRAGILE



2010FIFAサッカーワールドカップ南アフリカ大会。日本は決勝トーナメントでパラグアイと対戦し、延長戦でも決着はつかず、PK戦の末、負けてしまいました。


負けた瞬間、「終わっちゃった…」と心の中で僕はつぶやきました。

もっと見ていたかった。終わって欲しくなかった。

それがその時の素直な気持ちでした。


なんとも言えない寂しさに襲われました。


祭りの後とか、舞台の幕が下りたときなんかの寂しさにも似ていました。


一つの夢が終わってしまった寂しさ。一つの物語が終わってしまった寂しさ。このチームでの試合がもう見れないという寂しさ。

今しかないことがある。それが終わってしまったことをとても寂しく思いました。


まだまだ見続けていたいワールドカップという一つの大きなストーリーでした。

また僕たちはそれぞれの日常に戻り、それぞれの道を歩き出し、やがて記憶は薄れていくでしょう。

それでも、束の間ではあれど、心を一つとした大きなストーリーを忘れることはないと思います。


僕にとっては、ワールドカップでの日本代表の戦いは、映画みたいなものだったんだと思います。

終わらないでほしいくらい見続けていたいと感じた映画。

映画のストーリーに感情移入し、心を揺さぶられました。

その映画を見て心の中のポケットには、夢のかけらが入っていました。

それは、このチームでの試合を、あと一試合見たかったという夢のかけらです。

それは叶いませんでした。叶わなかったからこそ、心に残り、夢のかけらとなりました。


選手たちは叶わなかったベスト4という夢のかけらを追いかけて4年後へとそれぞれの道を走り出して行くでしょう。




心を一つにするような夢や物語を見失った時代。

共同体からはぐれ、個人として孤独と不安を抱え彷徨うように生きる人々。


満たされない何かを埋めるように、一つのイメージを共有しようとする人々。

「エコ」という言葉に群がることも、ワールドカップで盛り上がることも、一つのイメージを共有したいという想いからきている部分も少なからずあるはずです。

簡単に言えば、お祭りです。

お祭りは一体感を与えます。孤独な現実を忘れさせる。自分を等身大以上に大きく感じさせる。

現代人はどこかでお祭りを求めているような気がします。

それが行き過ぎれば、一体感は危険な方向へ進んでしまうこともある。


変化のない日常、夢を抱きにくい現実。

それでもそんな日々の中で、夢の欠片、愛の欠片を抱えながら人は生きている。人自体が「欠片」ともいえる。

欠片ゆえに満たされたいと思い生きている。

愛を求めて生きている。


愛とは何か。一つのイメージを共有することなのではないでしょうか。

それは夢や幻に似ています。

夢や幻に似た愛を人は求めている。思い通りに行かないことばかりの現実、孤独な現実だけではあまりに辛すぎる。

現実から逃げてしまいたくもなる。


それでも、たいていの人は、等身大の自分を見つめて、前を向こうと頑張っている。

日本代表みたいにたくさんの人に夢や希望や感動を与えられなくても、周りの人に何かを与えていたりする。

そのことのほうが実は大切なのではないか。

自分ができることを懸命にしているなら、その姿は誰かに前向きな何かを与えているはずです。



心を一つにして戦う日本代表を通して、心を一つにして、共に喜び、共に悔しがり、共に涙したサポーターたち。

選手は勇気をもらったと言いました。僕も勇気をもらいました。

相互にいい影響をもたらし合う関係、人は信じれば想いを伝えあい繋がることができる。それは素敵な事です。

そして、バラバラな心を、束の間のあいだとしても、一つにしてくれた日本代表のすべての人に「ありがとう」と言いたいです。



一つのイメージを共有できることは、奇跡みたいなものです。

現実を生きていれば、それは嫌というほどわかるはずです。


そんな奇跡の瞬間を与えてくれたことに感謝します。


どんな人もおそらくそれぞれの夢のかけらを持っていると思います。

人は不完全な生きものだから、思い通りになんていかない。

思い通りに行くことがはたしていいのかも疑問です。

夢の欠片があるからこそ、前を向けるともいえる。

「欠片」的な存在だからこそ、人を求めるともいえるし、愛という幻想を求めるといえるのではないかとも思います。


それぞれの道で、それぞれの夢のかけらを抱えながら懸命に生きて行く中で、何かを通してそれぞれの道が一つになる瞬間があるからこそ、人は何度でも夢を見て、愛を信じて、人を想って、喜び、涙できるのかもしれません。



岡田JAPAN、感動をありがとう!!!

そして、お疲れ様でした。



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