7月7日、七夕ということで、1年に1度七夕の日に会う約束をした日本人の女の子と韓国人の男の子の恋愛映画「チルソクの夏」を紹介します。ちなみにこれは日本映画です。
【スタッフ&キャスト】
監督・脚本:佐々部清 「半落ち」
出演:水谷妃里/上野樹里/桂亜沙美/三村恭代/淳評など
【ストーリー】
1977年7月7日、釜山で行われた下関と釜山の親善陸上競技大会に、親友の真理、巴、玲子と共に出場した高校2年生の郁子は、同じ種目の韓国人青年・安大豪と恋をし、来年また大会で会おうと、チルソク(七夕)の約束を交わす。
以来、ふたりは文通を通して絆を深め合うが、郁子の両親は韓国人との交際にいい顔をしない。それは、安の家族も同じことだった。やがて、安の手紙は途絶えるようになり、彼の母から文通を止めて欲しいとする旨の手紙が送られて来た。気落ちし、練習に身が入らなくなってしまう郁子。しかし、真理たちに励まされた彼女は、1年後、下関で開かれた大会で安と再会を果たし、楽しい一時を過ごす。そして、大学進学と徴兵を控える彼と4年後の再会を約束して別れるのだが、その後、それぞれの人生を歩き始めたふたりが会うことはなかった。2003年、バブルの崩壊などで一時中止されていた大会が、10年振りに開催された。今は体育教師となり、大会の運営に携わっていた郁子は、そこで安と再会する。(サイトより)
不自由な恋ゆえの輝き 感・想・文・FRAGILE
まだ日本と韓国がいまほど心理的距離が近くなく、政治的にも溝が深かった頃が舞台ということがこの恋物語になにをもたらしているのか。
それは「不自由な恋ゆえの輝き」。
当時はまだ、日本と韓国は仲が悪く、両国の親も周囲も日本人との恋愛、韓国人との恋愛なんて認めてはくれないような時代。
まだケイタイもなくメールも出来ない、連絡ツールは手紙だけ。
それに言葉がわからないし、相手がどんな人かの情報も僅かしかない。
だからこそ、勘違いしやすく妄想を膨らませ、恋にときめいた。
恋の障害が、恋を特別なものにしてくれた。
時間的にも空間的にも縛られていた。不自由だったからこそ恋愛が盛り上がった。
恋愛に限らず、人間関係も「さみしさ」なんてそんなに感じていたとは思えない。
もちろん、好きな人に逢えない「さみしさ」はあったとは思うけど、現代のような心がからっぽの「さみしさ」はほどんどなかったんじゃないか。
社会的な縛りが、人間関係を濃密にしていて、しがらみはあったし、不自由なことだらけだったけれど、そのぶん「さみしさ」を感じることはなかったように思える。
今はどうか。
すぐに想いを伝えられる、すぐに繋がれる時代は自由なようで、実は不自由なのではないか。
障害のない恋愛は、いまいち盛り上がらず、長続きしない。
続いたとしても物足りなさを感じる。
だらだら続く恋愛。相手のことを想像する必要もなく、メールですぐに近況を知れる。
不特定多数の人といつでもどこでも繋がれるのに「さみしさ」は拭えない。
時間的空間的な束縛からの解放は、人々を自由にしてバラバラにした。世間のしがらみから解放した。
障害を取り除いて、不自由のない自由な社会を実現した。
そうした情報が溢れる社会の到来は、勘違いゆえのドラマを失わせ、ひたむきに何かを追いかけることを馬鹿げたことと観念させ、失敗を過剰に恐れさせるようになった。
それは人が賢くなったといえるのかもしれない。便利な世の中になったし、楽しいこともそれなりにある。
なにより、あらゆることが個人化したことは、望んでいたことだ。
だけど、手にしたことで失ったものがあった。
そうした失くしたもの、二度と取り戻せないものがこの映画には描かれている。
だから、胸が苦しく、切なくなる。
失くしたものとは、たとえば、みんなで追いかける一つの未来。
たとえば、言葉にしなくてもなんとなくわかりあえてしまう間柄。
たとえば、冷めた恋愛ではなく、勘違いでも盛り上がれた恋愛。
たとえば、想いを伝えるまでの道のりの遠さと、そこにある胸の苦しさとトキメキ。
不自由さゆえの輝きを僕らは失って、自由になり、幸せゆえにだらだらと続く日常と、個人化ゆえの不安と孤独を手にしている。
ざっと書いてしまいましたが、終わります。
いい映画なので、是非観てください。