まずは超朗報のテレビ番組♪
なんと100日間密着な上にビルボード東京をたっぷり放送ですってー♪♪
ありがたやーーー!!!!
超楽しみ♪♪
こんな朗報を受けながら、仙台駅から松島を通り石巻へ。
松島といえば瑞巌寺で「ふたりの大漁節」の歌の奉納をしたんだよ。私行けなかったんだけど。などとアンダーちゃんに語る私。
なんだかもはや昔話のよう。。。
20年近く前????
時が経つのは早いですなぁ。うっかりしてる間に人生が終わっちゃうかもしれないから、多少無理してでも追っかけしなくては。
ん?なんの決意?しかも今更?こんなに行ってるのに??
と自分でツッコミながら、道中には3.11の震災後に冬美ちゃんがどれほど素晴らしかったかのお話しをしながら会場到着。
今日のメンバーだと、震災の頃から追っかけしてたのは私としまみちゃんだけかぁ。
ますます時の流れを感じちゃう。
あの頃のこと。そして変わらずステージに立ち、心から湧き上がる歌を届けてくださる冬美ちゃんに、今日は感動しっぱなしでした。
特に最後の風に立つでは、昼夜ともに泣いてしまいました。
「私には歌うことしか出来ませんが」と今もおっしゃるけど、その歌が、この歌がどれだけ多くの方の心を支えてきたのでしょう。
あの時も今もこうして冬美ちゃんの生の歌をコンサート会場で同じように聴き続けられていることにも深く深く感謝しております。
コロナ禍も超え、日常は無常としか思えなくなった中でも、いつでも私はここにいるからね。と当たり前のようにご自分のステージに立ち続けてくださる冬美ちゃん。
もちろん、当たり前なわけはなく、日々の摂生に練習にメンテナンスにハードなスケジュール。
大切に一日一日を積み重ねて今日があることを、よく知っております。
同じ時代に生きているからには、一時も見逃さずに冬美ちゃんを見続けて生きたいと決意した、、、(と言っても追っかけになっただけだけどw)あの頃やその頃のことなど、普段は忘れているようなことが頭や心をぐるぐると掻き回され、本当に色々と思う1日でした。
全ての瞬間に於いて「坂本冬美」はカッコよく、「冬美ちゃん」は優しく、「歌姫・坂本冬美」は女神でしたし、これからもそれは変わることがないでしょう。
と、私の心情ばかりではレポにならないので、興味深いトークがありました。
コンサートで言っていたんだから書いてもいいかな?一応名前は伏せておこう(珍しく自粛w)
ある大先輩男性演歌歌手の方に
「冬美ちゃんに紹介したい人がいるから食事でも行かない?」
と誘われて、「もちろんです!」とは言ったものの「二葉百合子先生ご夫妻もご一緒で良いですか?」と言って同席してもらったそうです。
会ってみたらどうやらそれはお見合いだったようで(笑)、冬美ちゃんが二葉先生にコッソリ
「先生、なんかまずいですよね。この雰囲気は。
どうしたら良いでしょう??」
と言うと、二葉先生は
「お食事を頂きましょう(笑)」
と答えたというお話し(笑)
知らぬ間にお見合いセッティングされてるのもなんでそうなる??って感じだし、でも何某かの危険を察知して同席を求めるのが二葉先生夫妻なのも冬美ちゃんさすがだし、どうしましょう?と聞かれて、とりあえず食べましょうと答える二葉先生も流石だし(笑)
まあ、今も歌一筋でいらっしゃいますからお見合いは、、、、モゴモゴモゴだったということでしょう。
ぜひこのお話しはロングバージョンでお聞きしたいです(笑)
こんな面白い話しの後に大真面目な話しなのですが、ここ最近のファミリーは知らなかったと言っていたから震災の頃のお話しを。まずは冬美ちゃんが今日されたお話しから。
風に立つの前のトークで昼夜少し言葉は違いますがこんな趣旨のお話しでした。
〉
今日、石巻に向かうタクシーで運転手さんが3.11の震災でこの辺りも多くの被害が出たと教えてくださいました。
あれから14年。
日々皆さまが前を向いて頑張ってこられての今だと思います。
ちょっと話しが長くなるのですがいいですか?
震災とは全く関係ないのですが、私の父もずいぶん前に海で亡くなっておりまして。事故なんですけれども海に車ごと落ちてしまってそのまま亡くなってしまって。
ですから、震災後に海を見ている方(海で亡くなってしまったご家族を待っている)がとても他人事とは思えなかったんです。
もっとそう思ったのは母でした。
災害が起きた日から毎日毎日電話が母からありまして、「お前はどうしてるんだ。だれそれは義援金をいくらしたそうだ。だれだれは現地に出向いたそうだ」と。
私も「節電したり今できることをしながら過ごしている」と言っていたのですが、ついに痺れを切らした母が
「お前は裸一貫で故郷を出て行ったんじゃないか。今、皆さまに恩返しをしなくていつするんだ!」
と背中を押されました。
まだ震災から2週間ほどしか経っていない頃に梅干しを持って、被災地を慰問させて頂いたんですけれど、まだまだ歌を聴くような状況ではなかったと思います。それでも聴いてくださる方もいらっしゃって。
そう言ってくれた母も、もういないんですけれども。
ですから3.11のことを思うとき、母に言われた言葉も一緒に思います。
その慰問の時にも、先日紅白歌合戦で能登の輪島から歌わせて頂いたときにも歌ったのがこれから聴いて頂く「風に立つ」です。
今は、本当にいつ何があるかわからない世の中ですが、どんなときも前を向いて、人生、やるっきゃないさ。という人生の応援歌です。
私には歌うことしかできませんが、精一杯心を込めて歌わせて頂きます。
人生の応援歌、風に立つ、お聴きください。
〉
こんな感じでした。
泣いちゃうでしょ?そりゃ泣きますよ!!!
んで、ご本人はほとんどおっしゃらないのでファンの集いか何かのイベントで冗さんから聞いたんだっけかな?元ネタ忘れてしまいましたが、義援金も凄いんですよ。
だいぶ後から、たぶん何年か経ってから聞いた気がするんですけど、震災当時はまた君に恋してるを前年の紅白で歌って大ヒット中の時期だったんですね。
それでまた君の歌唱印税を全て東日本大震災に寄付してしまったと聞きました。
さらにその年の9月に那智の方で大洪水が起きてしまい、東日本に寄付したのに故郷に寄付しないわけはないので寄付をしたら、今度は逆にお母様から「そんなに寄付してお金がなくなったんじゃないか」と心配された。
こんなお話しだったと記憶しています。
ちなみに、那智勝浦には翌年の1月だったっけかな?被災した方々に向けて大きな体育館でカラオケでのコンサートを冬美ちゃんご自身が丸々の持ち出しで無料招待で開催されております。
「歌うことしかできませんが」
の意味は、今ここで歌うの意味以上に、本当に「歌うこと」で直接的にも間接的にも届けてくださるんです。
震災後のコンサートは東北ではなかなか開催できませんでしたが、どの地域で歌っているときも「東北に届け!」という気持ちが本当に客席ひとりひとりにも、東北にも、届いていました。
そーゆー方なんです。
坂本冬美様が歌姫・女神になったのはこのことだけじゃなく、このような心で39年もの間、歌に向き合ってこられたからだと思います。
今日も冬美ちゃんが好きで好きで好きでたまらない気持ちが溢れまくっております!!
冬美ちゃん、素晴らしいコンサートをありがとうございました!!!