平成16年9月12日(日) 勾留125日目
あと17日、こんなことを繰り返せば、シャバに出られる。
昨日読んだ馳星周の小説に、こんな一節があった。
突飛な事件に否応なく巻き込まれた女教師への、主人公の言葉だ。
「どうだ先生、人生ってのはおもしれえもんだろ?」
面白いといえば、面白い。
なんたって、留置場に裁判に刑務所だ。
私の人生には立て続けに事が起こり、退屈しているヒマなどないのだから。
平成16年9月9日(木) 勾留122日目
2回目の公判。とんだ茶番だ。
情状証人に来てくれた母には、頭が下がる。
求刑、懲役1年6月。
9月29日、判決。
【過去の過ちを振り返って】
検察官は棒読みの論告求刑をし、弁護士は棒読みの最終弁論をする。
茶番とは、そういうことだ。
男は、「裁判なんて学級会みたいなものだ」と言った。
ある地方支部にいる数人の裁判官と、数人の検察官、数人の弁護士。
これら法曹三者は、同じ顔ぶれで月に何度も顔を合わせ、被告人だけが違う。
そうした状況では、公判は裁判というよりもむしろ、「判決」という名の検察と弁護人両方の顔を立てた「着地点」に向けての、単なる通過儀礼に堕する。
私は法学部の出身だ。
法学部生は、法が予定する理想を、徹底的に教え込まれ、また自らその論理を構築する。
ある裁判の傍聴の際、そんな私に衝撃的な光景があった。
公判が始まる前の廊下で、本来は対峙すべき検察官と弁護人が、和やかに談笑していて、検察官がドアの覗き窓を覗き、「遅いな。まだ被告人質問やってるよ」とつぶやいた。
それからほどなくしてその公判が終わり、次の公判のため、検察官と弁護士が入廷すると、裁判官は検察官に、ごめんねごめんね! と手を合わせ、前の裁判が遅れたことを詫びた。
「学級会」とは、そういうことだ。
私はこのことをもってのみ、公正な裁判が期待できないなどとは言わない。
しかしそこには、怠惰と馴れ合いの入り込む余地がある。
そしてそれは一言で言えば、司法の閉鎖性にこそ起因するのである。
まもなく、裁判員制度が始まる。
裁判員制度の本質は、時代が要請した「司法制度の民主化」だ。
一般市民という外部からの目にさらされることになるそれは、法曹三者に襟を正すことを要求し、捜査機関には取調べの可視化や被疑者の人間的処遇を要求するだろう。
ニッポンの刑事裁判は、どのように変わっていくのだろうか?
平成16年9月8日(水) 勾留121日目
○○大学で土木建築を専攻、一級土木工事施行管理者資格所持の、変わった経歴の看守がいる。
その人と運動のとき、労災と安衛法の話をしていたら、がぜん発奮してきた。
やはり私は、仲間がいないとダメな方なのだということがわかった。
明日、ようやく裁判だ。あとで弁護士を呼ぶ。
「弁護士はカネもらわなきゃ動かないからぁ」とぬけぬけとヌカすような、そんな奴だ。
荷物類の宅下げに来てほしいと、今日休みの兄に頼んだのだが、来てくれるだろうか?
平成16年9月7日(火) 勾留120日目
もういくつ寝ると・・ ・ではないが、あと2晩寝れば裁判だ。
浮き足立って仕方がない。
その後判決までは、1週間程度のことが多いという。
ここから出られるという、実感がない。
平成16年9月4日(土) 勾留117日目
もう解答会は終わっただろうか?
「バカの壁」は、そんなに面白いか?
【過去の過ちを振り返って】
「バカの壁」の結論は、前書きの段階ですでに書かれているではないか。
学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳である。
自分の脳のポテンシャルを超える事象は、自分は理解できない。
当たり前のことだ。
平成16年9月3日(金) 勾留116日目
遠路はるばる、母が1人で来てくれた。
本も2冊持ってきてくれた。
早速、「取調室の心理学」読了。
銃刀法違反は不起訴のようだ。荷物を持って出て行った。
鉄筋工には、数年前のバイク窃盗の余罪が出てきた。