パソコン内で探し物をしていたら、以前書きかけていた高校卒業から現在までの自伝??を発見(笑)
高校3年生までは手書きのものが高校の卒業制作で作ったからあって、それ以降を書こうとしたらしく、どうやってフォーマットを探したのか原稿用紙に縦書きで作文みたいに書いてあった。
もったいないから、とりあえずレイアウトはせずにここに載せておこう。
続きが書きたくなるなぁ・・・
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平成5年、1月17日。
目黒区の全日本女子プロレス道場で、私はオーディションを受けていた。
前年の一月にこの道場に初めて訪れたとき子供の頃からの夢に近づく喜びと、もし夢に向かって挫折したら、その後の人生でその挫折感を克服できるのか不安も感じていた。
物事をやり始めてしまえば結果は二つしかない。
「出来た」と「出来なかった」
やり始めなければ結果を求められることも無く、少なくとも「出来なかった」という挫折は味わわなくて済む。夢を夢のまま終わらせるのか、チャレンジして夢破れるのかに悩み、この場所に来るまでに3年もかかっていた。
オーディションの結果は合格。だけど、大学の推薦入学枠をすでに確保していたために学校では大騒ぎになってしまった。
夢を追って努力をしたわりには、もし夢破れたときの保険をかけていたのだ。
「●●(私の苗字)が推薦枠を蹴ってプロレスに入るなら、次年度からの推薦枠はなくなり、後輩に迷惑をかけることになる。●●の担任は降格処分になり、学年主任も降格。それでも応援するが、本当に入門するのか。」
校長室で両親とともに何度も話し合いがもたれ、夢に保険をかけていた自分の甘さと情けなさでこれ以上迷惑はかけられない。と全て自分の至らなさを認めて入門を諦めた。
翌日からは何度も、何度も同じ夢を見た。
プロレスの練習生になって、憧れていた選手から
「10カウントを聞いて引退するまでは辛くても頑張りなさい。」
と励まされる夢・・・
毎日同じ夢で現実に引き戻されると、もう二度と同じ夢を追えないことに気付き、途方も無く落ち込むしかなかった。
「高望みをしなければ、それなりに幸せに暮らせるようになっているから、ひとつのことを極めるには向かない性格なのよ。」
と、励ます意味でもなく言う母の言葉に、妙に納得してしまう。
自分でも要領はいい方だと思うし、飽きっぽい方だとも思う。確かに適当に暮らすには困らない性格なのだと自覚もしていた。
大学に入ると、それでも諦められずにメキシコに渡ってプロレスラーになれないかとスペイン語を選択してみたり、格闘家としてリングに一度でもあがれないかとボクシングを始めてみたが、母が言うようにある程度までは要領よくこなすが継続できない。
初めてにしてはよくできる。とか、飲み込みが早いから期待できる。とは言われるが、決して一番になることはなかった。
「義理を通せば 情けが枯れる 夢にすがれば 行き当たる それが世間と承知の上で
決めた道なら男なら 」坂本冬美さんの演歌を聴いたのはその頃だったと思う。
「男なら」という言葉が引っかかった。
私は女だけど決めた道があるなら何があっても突き進むべきだったんじゃないか。ますます寂しい情け無い気持ちでこの歌を聴いていた。
就職をするころになると、すっかりプロレスラーになるという夢は過去のものになり、氷河期と呼ばれる就職戦線も要領よくこなし、経営が安定しているが社員の待遇は悪いと評判のイトーヨーカドーに就職した。
このときも、成長著しいアミューズメント業界を志望していたが、日本でアミューズメントというとゲームセンターかパチンコしかないらしく、パチンコ業界に魅力を感じていた。就職セミナーで見た新店オープンのときのスタッフには「熱」があり、仕事でこんな興奮を味わえるなら。と決めていた。
結局は、嫁に行くときに花嫁は「パチンコ店店員です」じゃ格好がつかないんじゃないの?という友達のひとことで、それもそうだなぁ。と考え直し、面白くないかもしれないけど安定していて社会的評価も高い会社に就職を決めたのだ。
私にしてみれば、プロレスじゃないならなんでも一緒だった。プロレス以外にやりたいものなんて、もう一生できないと諦めていた。
働き出すと別段いやなこともなく、パートさんとも仲良く、上司には生意気を言いながら楽しい毎日だった。
同期が会社や上司の愚痴を言うのを聞いては、嫌なら辞めればいいのに。私はこれで決まったお給料がもらえるなら全然嫌じゃないなぁ。と思っていた。
3年目にもなると、見切りをつけて辞めていくもの、昇進を狙って上司に媚を売るもの、死んだ魚の目をして、日々を淡々と過ごすものなど、会社への関わり方に差が出てきていた。
私は、自分の持ち場にはそれなりの責任とやりがいを持ち、組織の中で使われている。というような被害妄想もなく、本当にそれなりにただ毎日を楽しく過ごしていた。