『時を止めたCD』 | 日々是非可換   -非可換な私の雑記ー

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今日あったこと、昔の出来事、未来への思い、考えたこと、考えなかったこと、手慰み、記録、思いつき、思い出。非可換な私が送る非可換な日々を書き記します。公開しているけれど公開が目的ではありません。後悔はします、多分。


帰宅して明日の仕事の資料を用意していたが、なんとなくやる気が出ない。むかしよく聴いていた曲をもう一度聴きたくなって、棚のCDを久しぶりに手に取った。開いてみると別の歌手のCDが入っていた。当時付き合っていた彼女が好きだった歌手のCDだった。


彼女とはバイトで知り合った。短期の募集に応募してきた彼女が辞める際、このまま逢えなくなるのは悲しいと思って慌てて告白した。彼女のほうも俺が気になっていたらしい。付き合うことになってとても嬉しかった。


気取らずさり気ない気づかいと優しさが素敵な女性だった。二人とも大学とバイトが忙しい生活だったが、出来るだけ二人で過ごすようにしていた。お互いの好きな歌手のCDを貸し借りするようになって、似ているようで違う趣味がお互いの刺激になった。大学の長期休暇には一緒に貧乏旅行に行った。苦労を笑い飛ばせる彼女がますます好きになっていった。


あるとき些細なことで口喧嘩になった。たいていどちらからともなくお互いに謝りあって終わるのだが、そのときは彼女が全く引き下がらなかった。怒って自分のアパートに戻った彼女から携帯にメールが届いたのは翌日の朝早くだった。「父が亡くなりました。急いで故郷に帰ります。しばらく連絡できません」とだけ書いてあったので「分かりました。気をつけて」とだけ返信した。


一週間が過ぎ二週間が過ぎ、一か月が過ぎたが連絡はつかなかった。大学は別、バイトも辞めていて連絡をとれる共通の知人がいなかったのでじっと待った。彼女の携帯はいつのまにか解約されていた。二か月が過ぎ、三か月が過ぎたころ、夜中に突然彼女が部屋にやって来た。


部屋に上がってもらおうとすると、玄関先でいいと言う。口ごもりがちな彼女にどういうことかと尋ねると「大学を辞めて田舎に帰ることになった」と泣きながら言った。絶句していると「むこうでお見合いをすることになった。私にはどうしようもない。ただあなたに申し訳なくて」と何度も頭を下げる。震える泣き声を我慢するように必死で「ごめんなさいごめんなさい」と何度も頭を下げた。


私は頭が真っ白になってうまくしゃべれなかった。かすれるような声で「こっちで一緒に暮らせない?」と訊いたが「無理なの。ごめんなさい」とやっぱり泣きながら言った。しばらく「でも」「だって」と押し問答して、「もう行かなきゃ」と彼女は言った。


「本当にごめんなさい。ありがとう。さようなら」そういって、彼女は去っていった。玄関のチャイムが鳴ってから三分も経たない間の出来事だった。


しばらく腑抜けのようになったあと、バイトと学業の日々に戻った。恨んだり憎んだりしたこともあったが、連絡も出来ない彼女には恨み言の一つも言えなかった。そのうち時が心の傷を癒した。


大学を卒業し、そのまま都会で就職した。それから数年が過ぎ、彼女のことはすっかり忘れていた。


彼女が好きだった歌手のCDを見たとたんに、彼女の笑顔、優しさ、思いやりなどを鮮明に思い出した。そのCDに昔のその時が止まったまま封じ込められているように思えた。


しばらくそのCDを見つめて、そっとケースを閉じた。


あれから私も数年分大人になったが、あのとき彼女をどうすればよかったのか、今でも分からない。無理やり引き止めるべきだったのか。彼女はどういうつもりで私の部屋に来たのだろうか。疑問は尽きず答えは出ない。


彼女はどんなときも笑って楽しく過ごしていた。私も彼女のように毎日を過ごしたい。私は手に取ったCDケースを棚に戻し、明日の資料の用意を始めた。