義祖母が他界した。
享年97歳。
コロナ禍以降続いた施設の面会制限もあり
この夏久しぶりに会えた矢先だった。
棺に横たわる義祖母は
雪のように白くてスベスベのお肌。
本当に眠っているようで、
変な言い方かもしれないけど
とても美しかった。
納棺、お通夜、お葬式、
火葬、収骨、初七日法要。
これでもかと「死」に直面する数日間だったけど、
やっぱり人は死なないのだと確信した。
「何を言ってるんだ」という話だが、
悟りが起こったときと同じように
理解が追いつかない頭と裏腹に
"いまここ"には確信があった。
「まだ魂は近くにある」とかそういう話では
ないからこの感覚を言葉にするのは
とても難しいのだけど……
「現れが変わった」が
一番しっくりくるかもしれない。
義祖母が他界したと知らせを受けてから数日間、
ずっとこの言葉がぐるぐるしていた。
これらは般若心経の一説だ。
不生不滅ふしょうふめつ
不垢不浄ふくふじょう
不増不減ふぞうふげん
生じることも無くなることもなく
汚れることも綺麗になることもなく
増えることも減ることもない
いわゆる"絶対の世界"の話。
死に面したときに
「死とは肉体が無くなること」
「魂はずっとある」
とよく言われるしかつてそう思っていたが、
今になって考えると理解が出来ない。
いや、日本語として認識はするが
頭が理解をしない。「したくない」ではない
生じることも無くなることもなく
汚れることも綺麗になることもなく
増えることも減ることもない
当たり前だ。
そもそも最初から何もない。
"コレ"しかないのだから。
般若心経にはこうも書かれている。
遠離一切顛倒夢想おんりいっさいてんどうむそう
一切の、ひっくり返っている
夢の世界から遠く離れなさい
ほんっとーーーーにこの通りだと思った。
生まれてないから死んでない。
いのちはなにも減ってない。
ずっと事実だと思っていた夢から覚めただけ。
「事実だと思っていた夢」
「ひっくり返っている夢の世界」
とはこの世とあの世の話ではない。
そもそもそんな区別が最初からないのだから。
もしかしたら義祖母を冒涜していると
感じる方もいるかもしれないが、
全くもってそうではない。
「死」と言われるものを通して
愛が浮き彫りになっているだけだ。
義祖母に愛を見ているだけだ。
寂しくないわけではない。
涙が出ないわけではない。
当てはまる感情表現が
いまここに存在しないだけ。
義祖母の死に愛をみる。
これがわたしなりの供養だ。
人は死なない。
「骨がある」
「魂がある」
「だから死んでない」
そんな話ではない。
無くならないのではない。
ずっとあるのではない。
最初から、
無い。
スクリーンの上で、
好きなように夢をみるだけだ。
悟りの段階でいうところの4は
これを感覚的に知っている世界だ。
伝わらないだろうし
冷たいと思われるかもしれないけど、
それでいい。
ここにわたしが"みたもの"を記しておけば
どこかの誰かの救いになるはずだ。
悲しみに埋没し、
いまここにある大きな愛を見落とさぬように。
悲しい、寂しいときこそ
大きな愛に包まれますように。