■音楽の誕生日映像/ヴォルフガング・サヴァリッシュ、指揮者・ピアニスト

1923/8/26~2013/2/22、ドイツの指揮者・ピアニスト

本日はモーツアルトの合唱曲とサヴァリッシュのピアノ伴奏をご紹介。

GIFはWolfgang Sawallisch /唸声 2001年

https://youtu.be/ZlKvv83qFhQ

 

音楽:モーツアルト/聖体の祝日のためのリタニア 変ホ長調K.243  (35:36)

https://youtu.be/KAOpg_CCgpM

ソプラノはマリー・マクローリン、アルトはスザンヌ・メンツァー、テノールはフランシスコ・アライサ、バスはスタッフォード・ディーン、指揮はサヴァリッシュ、演奏はウィーン交響楽団、録音は1991/9/13、日本武道館にて

武道館でクラシックコンサートもするんだw ちなみにリタニアとは連祷のこと。ミサ曲はプロ以外の合唱団でもよく歌われるが、リタニアは聞いたことがないかな。

 

音楽:シューベルト/4つのカンツォーネ D. 688  (10:05)

https://youtu.be/9eJOzRVEQCo

テノールはニコライ・ゲッダ、ピアノはサヴァリッシュ、録音は1974/7/12、ロ―マにて、youtubeはD668と書かれているが、D668はピアノ4手の作品で「序曲 ト短調」

 

 

幼少期からピアノ、音楽理論、作曲を学ぶ。指揮も、現代音楽の指揮で名高いハンス・ロスバウトに師事する。第二次世界大戦で通信兵として徴兵され、大戦後は1947年にアウクスブルク市立歌劇場にてフンパーディンク作曲のオペラ『ヘンゼルとグレーテル』でデビューする。この指揮が高く評価され、第一指揮者に抜擢される。次いで1949年にはピアノ奏者としてヴァイオリニストのゲルハルト・ザイツと共演し、ジュネーヴ国際音楽コンクールの二重奏部門で1位なしの2位となる。以後、指揮者とピアニスト(主にリートの伴奏者)としての活動を並立させる。

 

1953年にはアーヘン、1958年にヴィースバーデン、1960年にケルンのそれぞれの市立歌劇場の音楽総監督に就任する。その間の1957年にはロンドン・デビュー(エリーザベト・シュヴァルツコップの伴奏者、フィルハーモニア管弦楽団の指揮)と、バイロイト音楽祭初出演を果たす。33歳でのバイロイトへの出演は当時の最年少記録だった(1960年にロリン・マゼールが30歳で初出演し、現在はこれが最年少記録)。

 

これらの成功で、カラヤンはサヴァリッシュをウィーン国立歌劇場に、一方でルドルフ・ビングも当時支配人であったメトロポリタン歌劇場に引っ張りこもうとした。しかしサヴァリッシュは、自分はまだ経験不足だということを理由にいずれも断っている。結果的にこれが、プライドの高い2人の逆鱗に触れてしまい、カラヤンからは一度もベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれることがなく、また生涯一度もメトロポリタン歌劇場で指揮することなく終わった。

 

歌劇場での活躍の一方で、オーケストラの音楽監督としても活躍し、ウィーン交響楽団やハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者を歴任した。スイス・ロマンド管弦楽団では創設者エルネスト・アンセルメ亡き後のオーケストラの再構築に尽力した。1971年からはバイエルン国立歌劇場の音楽監督(1982年から1992年は音楽総監督)に就任した。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相対的な若返りに成功した。1988年には、ミュンヘン・オペラ・フェスティバルにおいて、リヒャルト・シュトラウスのすべてのオペラを上演して話題を呼んだ。

 

バイエルンのポストを退任後、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任した。フィラデルフィアのポストを退任した後は特定のポストには就かず、フリーの指揮者となっていたが、2006年3月に、5月以降に予定していたフィラデルフィアやローマなどでのコンサートを心臓病の悪化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事実上表明した。2013年2月22日、バイエルン州グラッサウ(ドイツ語版)にある自宅で死去した。

 

ミラノ・スカラ座からトスカニーニ・バトン、ベルリン・フィルからニキシュ・メダル、ウイーン交響楽団からブルックナー・メダルを贈られている。続きは以下のウィキにて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5