■誕生日の音楽映像/ジョン・デンバー、シンガーソングライター

1943/12/31~1997/10/12、米国のシンガーソングライター

本名はヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフ・ジュニア(Henry John Deutschendorf Jr.)。芸名の「デンバー」は、彼がこよなく愛したコロラド州の州都デンバーにちなんでつけたものである[1]。「故郷に帰りたい(カントリー・ロード)」「悲しみのジェット・プレーン」「太陽を背にうけて(Sunshine on My Shoulders)」など数多くのヒット曲を生み出し、1970年代のフォークソング界において中心的な役割を果たした。

GIFはJohn Denver/youtubeより、11歳の時に祖母からもらったキブソンのギターを語るジョン・デンバー

https://youtu.be/zlKLtnbU0xE

 

音楽:ジョン・デンバー/故郷に帰りたい 1971年  (2:58)

https://youtu.be/KSmh6FO3T74

録画は1981年、東京NHKホール、ジョン・デンバーの代表曲で、2014年にはウェストバージニア州の4番目の州歌となっている。ただ、「Almost heaven, West Virginia. Blue Ridge Mountains, Shenandoah river」と歌われるブルーリッジ山脈は全くウェストバージニア州を通っておらず、シェナンドー川もわずかにウェストバージニア州にかかるだけで、そのほとんどは隣のバージニア州を流れている。

 

音楽:ジョン・デンバー/Sunshine on My Shoulders=太陽を背にうけて 1973年  (5:20)

https://youtu.be/diwuu_r6GJE

君に捧げることのできる、曲が作れたら、こんな風に君を、元気にさせられる歌を、唄ってあげよう

 

音楽:ジョン・デンバー/Annie's Song=緑の風のアニー 1974年  (2:58)

https://youtu.be/Ch7JGUIx1WU

きみといると、自然に感謝し畏敬の念を感じるんだ、さあ、僕をもっと感じさせておくれ、もっときみを愛させてほしいんだ、こんな歌詞を妻のアニーに捧げているが、その8年後には、デンバーのDVで離婚・・・

 

 

ニューメキシコ州ロズウェルにおいてドイツ系の厳格な父親の家庭に長男として生まれる。父親が空軍パイロット(B-58の速度記録を持ち、空軍殿堂入り)であったため引っ越しを繰り返し、友達作りの難しい少年期だったが、アリゾナ州では少年合唱団に2年間在席、幸せな日々を過ごす。11歳、母方の音楽好きの祖母からアコースティック・ギターをもらう。

 

アラバマ州、次にテキサス州フォートワースに移住、当地のアーリントン・ハイツ高校(en:Arlington Heights High School)3年の時、父親の車でカリフォルニア州の知り合いを訪ね音楽活動を開始。父親がジェット機で彼を連れ戻しに現れ復学、卒業。テキサス工科大学(en:Texas Tech University) で建築学を学ぶが、1963年中退、ロサンゼルスに移住、フォーク・クラブ(en:folk club)で歌う。

 

1965年、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオ(en:The Chad Mitchell Trio)に参加。トリオを脱退した1966年、ビートルズなどのカバーを含むアルバム『John Denver Sings』を自主制作。アルバムの中に収められていた「悲しみのジェット・プレーン」(当時のタイトルは「Babe, I Hate To Go」)がプロデューサーのMilt Okunによりピーター・ポール&マリーのアルバム『Album 1700』(1967年)に収録、シングルはBillboard Hot 100の1位となる。

 

1969年10月、デビュー・アルバム『Rhymes & Reasons』をRCAレコードから発表。

 

親しみやすい曲調と繊細で情感あふれる歌詞が特徴で、1971年4月に発表したシングル「故郷に帰りたい(Take Me Home, Country Roads)」はBillboard Hot 100の2位を記録する大ヒットとなった [2] 。同曲の カバー (日本のタイトルは「カントリー・ロード」)はオリビア・ニュートン=ジョンにより1973年全英15位、1976年日本でオリコン洋楽チャート1位(テレビ番組がきっかけ)。また1995年本名陽子で スタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』の主題歌(映画ではオリビアのカバーもオープニングで使用)として使われた(オリコン22位)。

 

1976年、デンバーはコロラド州スノーマス近郊にニューエイジ・コミューン(New Age Commune、ニューエイジ村)を作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指したり、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて、生活をした。

 

1977年、世界の飢餓に対する組織 Hunger Project の創設者の1人となり、死まで組織を支える。 1985年、デンバーはアフリカの飢餓救済キャンペーン「ウィ・アー・ザ・ワールド 」への参加を申し出るが、却下される。

 

飛行を愛しNASAを支援、自身1985年NASA初の市民宇宙飛行計画の体力試験に合格、最終選考で落選。1986年のチャレンジャー号爆発事故の追悼歌を捧げる。

 

1994年、自伝「Take Me Home 」出版、自らの薬物使用、不倫、元妻への暴力を語る。

 

1996年、作曲家殿堂(en:Songwriters Hall of Fame)入り。

 

デンバーは航空機の収集家で複数の飛行機(複葉機、セスナ)を所持していた。1997年10月12日 、米国内ツアーを終えてカリフォルニアで休日を過ごしていたが、単独で操縦するプロペラ機(ルータン ロング・イージー)が墜落し死亡(機体に対する不慣れが原因とされる)。遺体は損傷が激しく身元確認は指紋によった。子供は3人。葬儀はコロラド州で行われた。53歳没。

 

2014年にハリウッド殿堂(en:Hollywood Walk of Fame)のレコーディング部門の2531番目の殿堂入りしたことが明らかとなった。ウイキより