■誕生日の音楽映像/ルイ・シュポア
ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。1784/4/5~1859/10/22、指揮棒を初めて使った指揮者であり、顎あてを発明したヴァイオリニストとも言われている。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Louis_spohr_2.jpg
音楽:ヴァイオリンとヴィオラのためのニ重奏曲 ホ短調 Op. 13
vn:アンチェ・ヴァイトハース、vla:タベア・ツィンマーマン
ヴィオラがすごく良い感じの落ち着いた曲です。
ルイ・シュポアはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国のブラウンシュヴァイクに生まれ、幼少期よりヴァイオリン演奏の才能を示す。15歳でブランシュヴァイク公の宮廷楽団に参入し、3年後には公爵の援助を得て、ヴァイオリンの巨匠フランツ・アントン・エックに師事すべく1年間サンクトペテルブルクに渡る。《ヴァイオリン協奏曲 第1番》を含む最初の著名な作品は、この時期にさかのぼる。帰国すると、公爵より演奏旅行に赴くべく北ドイツに遣わされた。1804年12月にライプツィヒにおける演奏会は、シュポアの演奏能力だけでなく、作曲能力のために、有力な音楽評論家フリードリヒ・ロホリッツを感服せしめた。この演奏会の成功により、シュポア青年は一夜にしてドイツ語圏の楽壇で有名になった。
1805年より1812年までゴータの宮廷楽長に就任。同地で18歳のハープ奏者、ドレッテ・シャイトラー(Dorette Scheidler)と出逢い、恋に落ち、翌年に結婚した(妻の両親は宮廷歌手であった)。シュポア夫妻は、ヴァイオリンとハープの二重奏を組み、1816年から1817年までイタリア、1820年にイングランド、1821年にパリで演奏旅行を行なった。しかし、ドレット夫人は出産と育児期間に入ってからは音楽活動をあきらめ、家事に専念する。1834年に夫人が不慮の死をとげたため、シュポアはひどく嘆き悲しんだ。その後、1836年にマリアンネ・プファイファー(Marianne Pfeiffer)と再婚した。
その後、1813年から1815年までウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務めて、ベートーヴェンと親しくなり、その《交響曲
第7番》と《戦争交響曲》の初演にも参加。1817年から1819年までフランクフルト歌劇場の監督となり、自作のオペラを上演することができた。その第1作が、ウィーンで受理されなかった《ファウスト》である。ウェーバーの申し出によって、1822年から没年までカッセルの宮廷楽長に就くことができた。-ウィキより-以下詳細
ハープ:Lena-Maria Buchberger=レーナ·マリア·ブッフバーガー(29)、1807年作曲、シュポアがハープ奏者ドレッテ・シャイトラーと結婚したのが1806年2月2日、まさに妻の為の作ったものかな?
以下はドレッテ・シャイトラーの肖像画/ウィキより、実にお美しい!
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dorette_Spohr,_n%C3%A9e_Scheidler_(1787-1834),_by_Carl_Gottlob_Schmeidler_(1772-1838).jpg
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