■誕生日の音楽映像/ピエトロ・マスカーニ
イタリアのオペラ作曲家、指揮者。1863/12/7~1945/8/2
写真はPietro Mascagni/ウイキより、撮影は1903/3/5
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pietro_Mascagni_2.jpg
音楽:マスカーニのアベ・マリア
マスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲のメロディーに、マッツォーニ(P. Mazzoni) が歌詞を付けた歌曲。シューベルト、グノー、カッチーニのアベ・マリアが有名だが、このマスカーニ版もなかなかいい。
音楽:オペラ、カヴァレリア・ルスティカーナ(72分)
田舎騎士道の意味、初演は1890年5月17日、ローマのコスタンツィ劇場にて
シチリア島のある村。復活祭の朝。トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人であったが、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまったのである。除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約したが、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまった。これはサンタの知るところとなる。サンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまう。アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔する。
ここで場を静めるかのように静かに間奏曲が流れる。
教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯する。アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断る。二人は決闘を申し合わせ、アルフィオはいったん去る。トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌う。トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥさんが殺された」という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕。-ウイキにて-
Santuzza
- Marina Krilovici
Turiddu
- Giorgio Merighi
Alfio
- Alexandre Agache
Lola
- Irene Kayanni
Conductor
- Marc Soustrot
Place
– Athens 1999年
ピエトロ・マスカーニはパン屋の両親の元に生まれる。父はピエトロに法律を学ばせたが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学ぶ。20歳にならぬうちに交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められる。そして後援者の後押しでミラノ音楽院に入り、アミルカレ・ポンキエッリに師事したが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始める。その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となる。
1890年にローマの楽譜出版社ソンゾーニョ(Musicale Sonzogno)の一幕歌劇コンクールに応募して当選した代表作『カヴァレリア・ルスティカーナ』によって驚異的な成功を収めるが、不幸にもこれがその後の多くの作品を霞めてしまった。それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残した。1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。
存命中は、オペラで驚くほどの成功をおさめ、同時に指揮者としても非常に成功を収めた。マスカーニの作風は、友人でライバルだったプッチーニとは大変に異なっている。おそらくそのために評論家筋からマスカーニ作品は過小評価されてきたのだろう。
ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノに再埋葬され、それと共に名誉回復された。
彼がいくつか残した自作自演(『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『友人フリッツ』など)は、現在もCDで入手することができるほど評価が高い。-ウィキより-
亡くなったローマのホテルはグランド・ホテル・プラザ、1933年から住んでいた。
http://www.grandhotelplaza.com/storia.php
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