■誕生日の音楽映像/ベドルジハ・スメタナ
チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。ドイツ語名、フリードリヒ・スメタナでも知られる。1824/3/2~1884/5/12
写真はBedřich Smetana/チェコ語版ウィキより、1860年代初期
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Smetana1860s.jpg
音楽映像/Prodaná nevě売られた花嫁 全幕 2時間18分
指揮ズデニェク・コシュラー、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、1980/12/18-1981/2/16
台本作者はカレル・サビナ (Karel Sabina)。チェコ語で書かれた3幕のオペラ・ブッファである。作曲は1863年から1866年。1866年5月30日に初演された後、改訂が施され、1870年9月25日にプラハの国民仮劇場において決定稿が初演された。日本初演は1955年9月13日、東京・日比谷公会堂において伊藤亘行、伊藤武雄、笹田和子、伊藤京子ほかのソロ、ニクラウス・エッシュバッハー指揮NHK交響楽団によって実現した。
ベドルジハ・スメタナは、ボヘミア北部リトミシュルという田舎の酒造りの長男として誕生した。幼時よりピアノとヴァイオリンを学んでいた。元々ピアニストとして素晴らしい才能を持っており、6歳の時にピアノ公演をしている。通常の学業を終えてから、彼はプラハでヨゼフ・プロクシュの下で音楽を学んだ。彼の最初の民族主義的な楽曲は、彼もわずかに関係した1848年プラハ反乱の中で書かれた。この時は、プラハで名声を得ることができず、スメタナはスウェーデンへと向かう。スウェーデン・ヨーテボリで、スメタナは音楽教師、聖歌隊指揮者として著名になる。そして、この頃から規模の大きいオーケストラ音楽の作曲を開始している。
1860年代初頭、ボヘミアにおける、より自由主義的な政治姿勢を受けて、スメタナはプラハへと戻った。それから、彼はプラハで、チェコオペラの新たなるジャンルの最も優れた作曲家として、人生を過ごした。1866年に、彼は自身初のオペラ作品、『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』が、プラハの仮劇場で初演されている。前述のように、後者は後に大きな人気を得ることになる。同年には、スメタナは同劇場の指揮者に就任しているが、彼の指揮者ぶりは論争の的となった。プラハの音楽関係者たちのある派閥は、彼をチェコのオペラスタイルの発展とは反目するフランツ・リストやリヒャルト・ヴァーグナーの前衛的なアイデアを用いる指揮者であると考えていた。その対立は、スメタナの創作業に影響し、健康状態を急速に悪化させた。それによって、1874年には、同劇場を辞めることになった。
1874年末頃に、スメタナは完全に失聴してしまうが、劇場の義務と、それに関連する論争から自由となった。彼は、残りの人生のほとんどを作曲に費やすようになる。彼のチェコ音楽への貢献は、ますます著名になり名声を得るようになった。しかし、精神を蝕む病によって、1884年には保護施設へと収監され、それから間もなく亡くなった。彼の祖国であるチェコでは、スメタナのチェコ音楽の創始者としての名声は持続し、彼の同世代たちと後継者たちよりも上に位置付けられている。しかしながら、スメタナの作品はその内の少数が国際的に知られるのみで、チェコ国外においては、アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークがより重要なチェコの作曲家であるとされることが多い。-ウィキより-続きは以下にて
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