前回、大阪とつくば市が「スーパーシティ特区」に指定されたニュースについて書きました。デジタル化により、便利になる事があることも事実ですので、全面否定したい訳では無いのですが、潜在的なリスクも有ることを考慮する必要は有ると思います。

個人情報が集積され、全ての情報を精査、検証することで、その個人についてかなり正確に把握出来ることは、個人としては目に見えるリスクとも言えますし、それが流出すればさらに大きなリスクとなります。そして、その先にあるAI=人工知能と言われる技術を使った「自動化」や「判断のための解析」には、多くの潜在的リスクが伴うと思われます。

AIといってもプログラムですから、そのロジックは人間が作成します。なので「条件」により「答え=結果=判断」は変わります。その大元とも言える条件を人間が行うことにより、結果を誘導することは可能であると同時に、予測不能な事態も想像されます。
 

先のニュースでは、

人を乗せて空を移動する「空飛ぶクルマ」の導入や、自動運転バスによる2025年大阪・関西万博来場者の輸送を計画。つくば市はロボットやドローンによる荷物の配送などを予定している」
との記述があります。
例えば、自動運転のプログラムを組むにあたり、リスクをどの様に捉えるかを入力する場合、非常に難しい問題に突き当たります。このサイトを見てみてください。
 

このサイトは、自動運転車を用いた人工知能の道徳的な意思決定にかんして、人間の視点を収集するためのプラット・フォームです。

自動運転車が2つの避けられない事故のうち、1つの選択を迫られるような状況で、「自動運転車のすべきこと」の判定を下すための価値観が試されます。シナリオを実際にやってみてください。

ある意味究極の選択を迫られます。そして、自動運転車がとる選択の基準となるのは、そのプログラムを書いた人の価値観によるところとなります。
そこで、多くの人の価値観を確認し、多数決で決める。または参考にするという主旨なのでしょうか。
 

この様なことは他にも考えられます。例えば、病気の診断から治療の判断においても同様なジレンマや、もっと冷徹な判断が成される可能性も否定できません。
デジタル化、AI化が進むと、遠隔医療も発展していくと思います。自宅に居ても診断が受けられたり、それにより薬が配達されたりすることは、良いことかもしれません。しかし、ここでも違和感を感じてしまいます。まず、診断はAIがします。某大な蓄積データを参照し結果が導き出され、これまた膨大なデータから適切と思われる薬が処方される訳です。しかし、これも同様にそのプログラムを行うのは人間です。そして、データに参照した結果、「打つ手なし」となることも考えられます。先程の自動運転車のように究極の選択(安楽死)となったり、極論見捨てられる可能性もあると思います。
 

裁判がAI化されたら、「犯罪者」は「プログラマー」により裁かれることに成りかねません。AIはあくまでプログラムで有ることを認識していないと、トンデモナイ世界で生きることになる可能性があります。

ここに書いた事はSFや妄想ではありません。内閣府に「ムーンショット計画」という、将来のプランが示されています。そこには、様々な未来像が描かれ、達成目標年度も示されています。

技術の進歩は素晴らしいことです。そのおかげで私達の生活は便利になりました。医療の発展により、長生きできるようになったり、病気の苦しみを緩和出来るようになりました。

私たち人間も動物であり、自然の一部であることを忘れては成らないと思います。そして、人間は自然には絶対に勝てません。勝負すること自体が無謀であり、無意味だと思えます。そういった意味での原点回帰は必要だと考えます。
 

しかし、世界を動かす人たちは、どうやら違う思考の様に思えます。アインシュタインの言葉で、とても印象に残っているものがあります。いつどこで誰からの質問だったか思い出せないですし、正確ではないのですが、ニュアンスを察して頂ければと思います。

質問者:「この世は全て数式で表せますか?」

アインシュタイン:「もちろんです。そうではない世界に私は生きたくありません」

これを聞いたときは、なんともスゴイ人だとしか思えませんでした。

 

しかし今、この言葉を思い出した時、ハッとしました。

アインシュタインはユダヤ人です。

現在のお金が支配する世界の構造を作ったのはユダヤ人です。

世界を動かすグローバリストの多くはユダヤ人です。

そして、ユダヤ人は神をも超越しようと考えているように思えます。

アインシュタインの言葉にも、そのような響きが感じられたのでした。

 

 

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