これが藤本先生の自伝であると同時に鎮魂歌のようにも思えたのです。
それは京都アニメーション襲撃事件が思い浮かんだからです。
あの事件が起きた時、多くのクリエイターが衝撃を受け、そして同時にクリエイターが自問したのではないでしょうか。
一体何のために作っているのかと。
多くのクリエイターにとって、作品を受け取ってくれて幸せになってくれることが自身の幸福でもあるのです。
そんな祈りにも似た願いに対し歪曲し、捻じ曲げて受け取る人が居たらどれ程辛いことか。
実際、クリエイターの願いは思惑を超えてしまうこともしばしばあるのです。
アニメ監督の宮崎駿は「となりのトトロ」で子供たちに自然と触れ合って欲しいという願ったのですが、家でDVDばかり見ている子供が増えてしまい落胆したそうです。
本作の藤野も自身の描いた四コマが、京本の運命を変えてしまったことで心砕かれてしまいます。
実に見事なのは、京本のドアからパラレルワールドへと繋がる辺りです。
これは現実の事件と重なって、心の底からの祈りのように思えました。
藤野が背負った悲しみは、間違いなく多くのクリエイターが背負った悲しみであり、そこからもう一度始めるしかなかった人達と同じだったのでしょう。
その背景を考えながらこのシーンを観ていたので、単なるパラレルのシーンというより、まるで鎮魂歌のように感じたのです。

本作は藤本先生の自伝としてあるのと同様に、何故漫画を描くのか、創作することに全てを捧げるのか、というクリエイターにとって根源的な問いに向き合っています。
私自身、嘗てクリエイターとしての仕事をしていた時期があります。
その頃は本当に毎日睡眠時間を削って、自身の全てを作品に捧げました。
それは肉体的にも精神的にも過酷なもので、だからこそ何度も何のためにやっているのかを自分に繰り返し問い返していました。
その答えは決して簡単に答えが出せるものではありません。
この映画もラストで同じ問いをしています。
その答えを台詞として明確にはしていませんが、私自身なりの答えには至りました。
それこそ、観た人次第の判断に委ねられるものなのでしょう。

今作で出て来た二人の主人公はどちらも藤本先生の分身と言って良いと思います。
藤本先生も引き籠もりであったそうなので、京本の境遇も先生自身の経験が色濃く反映していると思います。
同時にデッサン帳が山のように積み上がっていくのも凄くわかります。
本当に画の上手い人というのは常に描き続けています。
それは途方も無く根気の要ることで、それだけ持続出来ること自体が一つの才能と言っても良いと思います。
だから、才能というのは技術的な側面よりも、精神のあり方に依るところが大きいのかもしれません。
そして、この創作の世界で表で脚光を浴びるのはほんの一握りの人達です。
だから、そこに至るのは運の要素もあるのは確かです。
しかし、絶対的に努力することは必要なのです。
努力をしても成功しない人は大税居ますが、成功した人はほとんど努力している人達だけなのです。
そんなクリエイターとしての矜持も思い出させてくれたことも、どこか感謝したくなる気持ちになったのです。