「親ガチャ」という言葉を最近耳にしますが、ややスラングに聞こえるこの言葉も、現代では決して軽んじることの出来ない問題の一つと言って良いのかもしれません。
この映画が事実を元に描かれている点もやるせない気持ちになります。
同時に、自分が現在普通に暮らしていられるのも、親の影響がとても大きいことに気付かされます。
この映画のあんのような環境に自分が置かれたら、間違いなく今の自分のように生きることは出来なかったことでしょう。
そう考えると、自分自身は普通などではなく、とても幸運なのではと思えてくるのです。
ですが、それで自身をただ幸運で、不幸な人に対し無関心であって良い訳でもないのです。
社会というもののは、相互に関係することで成り立つものなのです。
だから、彼女のような人達に手を差し伸べることは相手の為でもありますが、同時に巡り巡って自分自身の為にもなるのです。
情けは人の為ならず、という言葉の意味を今こそ知るべき時なのでしょう。

この映画での悲劇は様々な要因が重なって起きたものです。
きっと彼女が救われる道はまだ残っていたと思うのです。
しかし、不幸な出来事が重なり悲しい運命を辿ってしまいました。
きっと、たった一人でも彼女のそばに居て、彼女を理解してくれる人が居たならこの悲劇は回避出来たのでしょう。
本来それを担うべき多々羅刑事は、自らの罪の為に逆に彼女を苦しめる存在となりました。
桐野も自らの正義の為に行動を起こし、それ自体が責められる訳ではありません。
ですが、結果的にあんにとっては辛い現実を突き付ける結果となりました。
最後の桐野が自身のしたことの是非に迷います。
しかし、この答えはどこにもなく、ただ罪の意識だけが残るだけなのかもしれません。
何よりも問題なのは、母親の晴海なのは明らかですが、彼女のような存在を生み出したのも今という時代故でしょう。
育児放棄やDVなど、家庭の崩壊は進む一方です。
これは、個々人の問題以上に社会体制から生じている面もあると思っています。
この母親のように人間性を著しく欠如している人というのは居るものです。
娘に向かって「ママ」と言う辺り、全く心の成長が出来ておらず、全て自らの欲の為だけに生きているように見えるのです。
そんな存在があんにとって、最大の絶望を与えたのは間違いないでしょう。
そして、きっと晴海は最後まで彼女の苦しみを理解することは出来ないのでしょう。
前半部分で、あんと多田羅と桐野がカラオケで歌っている姿は本当に微笑ましく、ここで物語が終わっていれば感動物語として成立していたことでしょう。
ですが、そうはならなかったのが本当に残念でなりません。

彼女は置かれた悲惨な状況にも関わらず、とても人間味のある人だったのだとわかります。
介護施設では別れを惜しまれ、他人の子を我が子のように愛することが出来る。
それは母親とは決定的に違う部分です。
それだけの素晴らしい心を持ちながら、全てに絶望してしまったのは運命の皮肉と言わざるをえません。
そしてコロナという情況も決して無関係ではなかったと思います。
あの時期、誰しもが何かしらの影響を受けました。
私自身もそこで大きく人生が変わったと思います。
それが彼女の場合は致命的なダメージにもなったように思います。
もし、あの時期、他に話す人が居たならこの悲劇は回避出来たのではとも思うのです。
彼女は多田羅を失い、職場を失い、学校を失い、最後に心の拠り所となっていた子供を失い、あらゆるものから切り離された状態になったのでしょう。
人が生きている上で繋がりを断たれるというのは、とてつもなく辛いことです。
それこそ死というのはその究極の断絶です。
それ以外にも人との別れや、社会との繋がりを失うことは辛いことです。
コロナの時期はそういった悲劇が沢山あったのは確かなことです。
そして、あんは最後に今迄積み上げてき自分という存在を、自分自身から切り捨ててしまいます。
その断絶こそが彼女を絶望の淵に追いやったのでしょう。
こういった悲劇は、今も尚私達の隣で起きていることです。
もし、それに対し何か出来ることがあるとすれば、それこそ純粋な他人に対する思いやりなのでしょう。
それが必要とされる時がいつなのかはわかりませんが、もし自分そのような機会が訪れたなら自分の出来得ることをしてあげたいとも思うのです。