石原さとみと言うと、やはりシン・ゴジラでの印象が残っているのですが、本作の彼女はその印象を払拭させる程に凄まじいものがありました。
それこそ狂気すれすれの極限状態を演じていて、その迫力に終始圧倒されっぱなしでした。
彼女の行動は時に常識的ではないこともあります。
しかし、家族を失った人の心情を考えると、こうなっても不思議はないと思えるのです。
私を含め多くの人が、彼女のような状況に関わる可能性が常にあるのです。
それを想像すると、この映画の登場人物たちの葛藤というものが他人事とは思えなくなるのです。
同時にこの映画のメインテーマはネットとメディアに於ける人間関係についてです。
ネットでの誹謗中傷は今でも頻繁に問題になっています。
最早、ネットは我々の生活には必需であり、その影響から無関係で居られる人は少数派になっているのが現状なのでしょう。
だからこそ、こういったトラブルは起きるものであり、完全に無くすことは出来ないものです。
結局はそういった問題に対し、一つずつ解決していくしかないのです。
逆にこれらの問題からネットは良くないものだという短絡的な発想も正しくはありません。
本作はネットでの問題と同じレベルで、テレビを中心としたメディアの問題も浮彫にしています。
だから、どちらが良くてどちらが悪いというものではないのでしょう。
そのどちらも存在意義があり問題を抱えている。
我々はそれらの問題を認識して対峙するしかないのです。

本作を観て、特にテレビ局側のジレンマというものが明確に描かれている点がとても興味深かったです。
同じテレビ局に居ながら、それぞれ目指す先というのは異なります。
ここで砂田と駒井という対照的な存在が登場しますが、この二人の差というものが現在の問題を明確に示していると思います。
ある意味、会社という営利団体に居るならば、駒井の方法が正解と言えます。
テレビ局は多くの人に視て貰うことこそが一番の目的ですから、倫理道徳とは必ずしも一致するものではありません。
どうしても人々の関心というものは、事実よりも自らが信じたい方向へと向かってしまうものです。
政治家のスキャンダルなどはその典型で、単純に政治家は悪、その真実を暴くテレビ局は善という構図が成り立ってしまうものです。
ですが、この世の構造というのは、そんな短絡的なものではないということが徐々に知れ渡ってきているようにも思えるのです。
今、テレビ業界が斜陽となって来ているのは、一つはネットと比べて機能面で劣っているからでもありますが、同時にテレビ業界が標準にしてきた報道姿勢に対する問題が明らかになってきたせいでもあると思います。
今回、主人公沙織里の弟の圭吾が違法行為を暴露されたことにより失職してしまいます。
違法カジノに行ったからという理由は当然のことではありますが、それも職場の同僚の誘いであり、彼には断れない立場にあったのかもしれません。
それこそ不器用な者だからこそ、自分を守る為にその選択をするしかなかったのではとも思えるのです。
逆に、それを暴露した砂田にしても、本心は失踪した美羽を見付けたい一心なのがわかります。
彼は最後まで放送には抵抗しましたが、最終的には利益を優先する会社の方針で放送されてしまいます。
では、これで放送局を悪と断じることが出来るかと言えば、それも微妙なところです。
そもそも放送局は営利団体なのですから、特ダネを放送しない訳にはいかないのです。
それを放送することで、社員の生活を守る義務があるのですから。
だからこそ、単にこれは善、これは悪という線引きは出来ないものだと思うのです。
それはテレビであれネットであれ、人の根源的なの問題であり、どんな媒体であれ生じてしまう問題なのでしょう。

この映画を観て、クリントイーストウッド監督の「チェンジリング」という映画を思い出しました。
この映画も息子の行方不明の話で、しかも実話が元になっています。
杜撰な警察の対応に対峙する母親が困難な状況に追い込まれるというものです。
そこで主人公クリスティン・コリンズは不当に精神病と診断され、病院に強制入院させられます。
今では想像も付かないような酷い扱いですが、これが実際に起きたことです。
このことから考えると、作中で沙織里が「いつからこんなに世の中が狂ったのだろう」という台詞がありましたが、決して今が狂った世の中に変化したという訳ではないのでしょう。
この世から不条理なことというのは無くならないものです。
ただ、私達自身がそれに関わるか関わらないかの違いでしかないのでしょう。
それもある程度は自力で防ぐことが出来ますが、時に抗うことの出来ない運命のように厄災に巻き込まれることもあるのです。
だから、我々はただ自分の出来る範囲でそれに備える以外に手はないのかもしれません。