今にして思うのはマッドマックス:怒りのデスロードの主役はフュリオサだったということです。
彼女が決断したからこそ全ての物語は動いたのであって、マックス自身は彼女の道標としての立ち位置であったように思えるのです。
同時にこのシリーズが実はフェミニズム映画であることがよくわかりました。
前作も女達が支配から解放され自由を勝ち取る話ですし、今作も復讐という形で男と向きあっています。
冒頭のシーンでも、彼女を救いに行くのも父親ではなく母親です。
その様が全く違和感なく受け入れられるのは、現実の時代の変化によるものでしょう。
しかし、この背景テーマは裏側にあるもので、表立って描かれるのは激しいアクションです。
その描写の激しさは相変わらずで、今作も前作に引けを取らない凄まじいものになっています。
この圧倒的な描写から一見マッチョイズムの映画と見えるのですが、中身は正反対というのが面白い側面なのです。
私は前作でこの構造に気付かなかったのですが、本作を観て改めて気付くことができました。
こういう気付きが出来たことも面白いと感じた一つです。

本作でフュリオサの幼少期から前作の冒頭に繋がるところまで描かれましたが、これで彼女の半生は描ききれたと言って良いでしょう。
そして本作を観ることで前作の彼女の行動に対し理解が深まりもしました。
この地獄のような世界に生きる者達と彼女が一線を画していたのは、彼女の出自によるものですし、彼女の自由に対する想いというのは母の影響による所も大きかったのでしょう。
対して彼女の仇敵ディメンタスは彼女にとって、ある意味父という存在になっています。
それは一方的な暴力による親子関係であったし、彼女からすれば憎しみしか生じなかったことでしょう。
現代で言い換えればDVの父親といったところかと思います。
反面、それが彼女の強さにも繋がったという側面もあるのです。
最後の最後まで彼に対する復讐心こそが彼女を支えたとも言えます。
またディメントス自身、この絶望的な世界で死に対する感覚は麻痺していたのでしょう。
彼がずっと手放すことの出来なかったぬいぐるみも彼が失った人間性の象徴のようも見えました。
元々は家族を大事にしていたただの男だったのかもしれません。
それが抗えない運命の前に狂うしかなかったのではと想像してしまいます。
もし彼が理性を残していたのなら、ガスタウンで満足出来たのかもしれません。
しかし、彼は狂っていたからこそ、刺激と闘争を求め戦争を始めてしまったように見えます。
それこそ、破滅することでしか彼自身止まることが出来なかったのかもしれません。

本作のアクション面については何と言ってもバトルトラックのシーンが凄まじいものがありました。
特に空中戦がかなり多かったのが凄かったですね。
そしてバレットシティの攻防辺りまでが本作のクライマックスとも言えるでしょう。
もうちょっと戦争シーンの描写があった方が良かった気もしますが、それより重要なフュリオサの復讐に焦点を当てるにはこれで良かったのかもしれません。
そして、後半のシーンはジャックがマックスと重なって見えました。
ある意味、ジャックというのはマックスと同じ立ち位置に居る人で、フュリオサからすれば自分を導いてくれた存在になります。
当然、彼が生き延びていたらフュリオサの選択はもっと別の方向に向かっていたことでしょう。
しかし、まるで運命のように愛する人がディメントスにより奪われます。
だからこそ、彼女の復讐にはただ殺すだけで済ますことが出来なかったのも頷けます。
母の絆であった種をあのように使うとは、正直に驚きましたし、間違いなく狂気の行いだと思います。
この辺りも背景にある要素を考えると奥深いものを感じるのです。
逆にこの過激さやメッセージ性というものが苦手と感じる人も居ることでしょう。
そこは観た人次第といった部分だと思っています。
私は純粋に凄い物観ることが出来たので満足出来ました。
なので、この手の映画は余り奥深い考察などせずに、純粋に楽しんで観た方が良いのかもしれません。