アウシュビッツの隣という一点を覗けば、極めて当たり前の日常を描いただけの作品です。
彼らはただ彼らの生活を守り、子供を育て、日々を過ごしているだけなのです。
収容所所長のルドルフ・ヘスも、極悪非道の悪魔ではなく、単に上からの命令に従い忠実に働いた組織構成員の一人に過ぎないのです。
勿論、彼らは収容所内で行われていることを知らなかった訳でもなく、彼らの行いが肯定される訳ではありません。
実際、ルドルフ・ヘスは戦犯として絞首刑となっています。
ただ、ここで問題とすべきは彼らの罪の有無ではなく、組織の恐るべき特性なのではと思うのです。
彼等が所属する組織、すなわちドイツ軍にとってユダヤ人絶滅が作戦であるならば、彼らのしていることは純粋に責務を果たしているに過ぎないのです。
実際、組織として行動する場合は構成員の一人が善悪の基準を持つことは出来ません。
例えば、会社での違法な行為があった場合、社員の一人がそれに気付けない場合もありますし、知った所でどうすることも出来ない場合があります。
そして、これがアウシュビッツだけの例なのかと言えばそんなことはなく、現代に於いても程度の差こそあれ似通った行為は続いています。
それはとても恐ろしいことですし、人類が今後も対峙していかなければならない大きな課題の一つです。
更に言うなら、我々の今の生活自体のために、自分の目の届かない所で誰かが犠牲となっているかどうかはわからないのです。
我々は何かしらの組織に所属しています。
その組織が悪であることが判明し、それにより制裁を受ける可能性もあるのです。
そう考えた時、今の私は単に運良く制裁を免れているに過ぎないだけなのかもしれないのです。
それだけ、組織というものは恐ろしい側面を持っているのだと思うのです。

特に印象深かったのは、人間を荷物と言ったり、効率を求め、スケジュールを目標にして行動している点です。
それは恐ろしくなる程に会社の仕事と同じなのです。
彼等は自身のしていることが人の命を奪う事なのだと知っているのです。
その上で、一切の罪の意識もなく任務を遂行しているのです。
更に彼の奥方も、自分の召使がユダヤ人であることを知った上で仕えさせているのです。
少しでも奥さんの機嫌が悪ければ、簡単に収容所送りにすることも出来るのでしょう。
それも全く平気なメンタルには驚かされました。
かと言ってドイツ人全員が彼等と同じような状況という訳ではありません。
奥方の母が来訪しますが、壁越しの施設で行われていることに気付き、別れの挨拶もなしに帰ってしまいます。
それこそ、ナチスの思想の影響の差によるものなのでしょう。

この映画の演出的な恐ろしさの多くは音響効果にあります。
ホラー映画などでも音響効果は恐怖を増幅させるのに凄く重要なものです。
しかし、この映画の恐ろしさはホラー映画のものとは一致しません。
恐ろしいのは、彼らが生活している間、収容所からの悲鳴や銃声、その他の恐ろしい音が常に聴こえていることです。
しかし、そんな音を聴きながらも彼らは普通の生活が出来ているのです。
それに彼らが異常な人間たちではなく、我々と同じ普通の人達なのです。
そんな家に対し奥方は「夢にまで見た生活」とまで言ってしまうのです。
ここまで人というのは自身に都合の良い情報のみを取り込み、不要なものを廃棄出来るものなのでしょう。
そしてそれは私自身も日々行っていることなのです。