「らしい。」0R「らしくない。」

男は、しなかったことに後悔する。

女は、してしまったことに後悔する。

「さっきの言動は、お前らしい。」や「あの態度は、お前らしくない。」と若い日々にはよく言われたものだ。

果たして「自分らしい。」「自分らしくない。」とは、他人様(ヒト)はいったい私の何を指して言っているのだろうか?

他人様は勝手に私にレッテルを貼って私の人格を断定しがちであるが、私と言うものが本当に分かっているのだろうか?

正直に言えば、この歳になっても、自分自身でさえ私と言うものが分かっていないのだから。

ある時は都合のいいことを言い。ある時はその場に合わせ。ある時は周りの意見に迎合する。それが格好悪いと気付くとやけになって反対する。

優しいふりしてヒトを裏切る。自分の利益にならないとなると、いとも簡単にバンドワゴンな手のひら返しをして、後でくよくよ悩む。

時には正論を吐いて拍手喝采を浴びる。小心にして大胆な臆病者である。ヒトが思うほど正直者でもない。

どんなに努力しても認めてもらえないと嘆き落ち込む、上昇志向の高い野心家でもある。

正統と主張し大義名分をうたい文句にして、いっぱしの大人ぶっていた頭デッカチでもある。

若い頃は「らしい。らしくない。」のレッテルに簡単に絡めとられて、訳も分からずにその型に合わせようとして、正論を吐くことと上に噛みつくことを混同していた時代でもあった。

一つの成功体験に固執して、ヒトの意見を封じ込めた狭量な輩でもあった。
ヒトの変わり身の早さを見て、いつまでも攻め続けた嫌味な奴でもあった。

自分に出来ないことには、羨望よりも嫉妬を感じてヒトを憎んだ。

もつ者への強烈な対抗心と敵愾心を胸に抱え、深夜「ひとり寝の子守歌」を呟きながら枕を濡らした孤独な青春時代。
なんと、ちっぽけな男であることか。

しかし、これ等のどれもこれもが私と言う一人の人間の偽らざる姿である。
他人様は、その時その場面を垣間見て勝手に「らしい。らしくない。」と決めているのだろう。

だけど、人間なんてそんな単純なものではない。

人間は生きてる限りその時その場面で態度が変わる「状況倫理」の持ち主であり、八方美人に成りたくて成れない、風向きに逆らえない風見鶏なのかもしれない。

何も他人様のレッテルに左右されることは、この辺で終わりにしたいものだ。
どうせ、もう直ぐこの世からオサラバするのだから。

「群盲象を模す」の喩えの通り「部分の総和は全体にならない。」ってことで・・・。