「嫌われることは自由の証」

「全てのヒトに好かれることは出来ない。」換言すれば「誰かに嫌われることを恐れてはいけない。」

自分のことを嫌うヒトがいると言うことは、自分が自由に生きるための代償であり、自分が自由に生きていることの証拠である。とは、先人の言葉。

そこで、私の一番好きな小咄「お線香代わり」を・・

ある村に貧乏な若い夫婦が仲睦まじく暮らしておりましたが、突然の流行り病で亭主がポックリとこの世を去りました。

後に残った若きおかみさんは、最愛の夫を偲んで毎日なようにお墓参りに出掛けます。

なにぶんにも赤貧洗うが如しの貧しさで、お線香を買うゆとりさえもありません。

今日もお参りに来ましたおかみさんは、お墓の前でさめざめと泣き沈みまして、

「おまえさん、すまないねぇ、こうやって毎日拝みに来てはいるけど、ワタシに力がないばっかりに、お線香さえも上げられないんだよ。」

「お線香を上げなくっちゃ、おまえさんも成仏しにくいだろうねえ、勘忍しておくれよ。」

涙ながらに、悲嘆にくれておりました。が・・

「あっ、そうだ!おまえさん。お線香を上げられない代わりにねえ!?」

と、何を思ったか、腰巻の前をパーッと捲くりまして、

『ホラ、今日はおまえさんが大好きだった、お線香の・・10倍のモノを上げますからね!』

(千×10=万「マン」で御座います。オセンコウの10倍はオ○ンコウ。
蛇足ですが、上記のおかみさんの行為は、若い内に限らせて頂きたい。如何でしょうか?ご同輩の皆さん。)

この世の中は悔しいかな、富の偏在を避けて通ることは出来ない。無いモノを恨んでも仕方がない。

この若きおかみさんのように、今あるモノでご亭主が一番喜ぶ術(すべ)を見出だし、臨機応変に対応することこそ、自由に生きて行く上では大事ではないか。と思う次第である。

自分の人生は自分のモノである。誰に何を言われようが、はたまた嫌われようが、その相手が責任をとってくれるなんてことはない。

つまらぬ遠慮して何が残ると言うのか、残るのは悔いだけである。

自由に生きるとは、自由な発想をするとは、何らかの代償を払わなければならない時がある。

いまは「無いモノ」について考えるときではない。
「いま有るモノ」で、何が出来るか考えるときである。
(アーネスト・ヘミングウェイ)