「いちご白書」Strawberry Statement)とは。

人間、長く生きていると、今まで長い間意味も分からずに使っていた言葉が、ある日突然「つゆのひぬま」のようにその意味が分かり、その閃きと共にものの見方が変わることがある。
これだから、人生は面白い。

「つゆのひぬま」とは「露の干ぬ間」と書き、朝露が乾かないほどの短い間のことで、「ほんのひととき」をことである。

先日、久しぶりにテレビの洋画劇場で「いちご白書」を見た。1970年に上映されたアメリカ映画である。
この映画の時代背景には、ベトナム戦争反対の学生運動の大きなうねりがあった。

当時、洋画が日本で上映されるのは、今と違って1年や1年半のタイムラグがあった。

私が22歳で就職仕立てだったと記憶するが定かではない。
が、あるオネーちゃんと池袋の映画館で見たことだけは憶えているが、それが誰だったか今となっては記憶に御座いません。

映画の内容は、ある大学のノンポリの男子学生が一人の女学生と付き合ううちに、大学側の運営方針やベトナム戦争に抗議の声を上げるようになり、デモに参加するようになる。

ラストシーンは、大学の講堂で車座に座って両手で床を叩きならす抗議デモの中に、機動隊が催涙弾を撃ち込み、警棒で襲いかかる。無力な学生たちの阿鼻叫喚の地獄絵図でストップモーションとなり終わる。

学生運動世代の身としては、観る者に何かを訴えているような印象的なシーンは今でも鮮明に記憶に残っている。

我が国ではその後、「いちご白書をもう一度」と言う歌が流行り、私もカラオケでよく唄う1曲である。

映画の内容と「いちご白書」と言う題名が、どうもしっくりこないまま半世紀が過ぎてしまった。

果たして「いちご白書」の言葉の由来とは、一体どういう意味なのか?喉に刺さったままの小骨のように時々気になっていた言葉であった。

最近巡り合った書籍によれば、
「いちご白書」と言うタイトルは、コロンビア大学の副学長ハーバード・デイーンが学生新聞のインタビューに答えた言葉からきているとのこと。

デイーンは、語った。
「学生や教員の意見では、大学は動かない。私立大学経営は民主主義ではない。」
続けて、
「学生が何かの問題(大学の運営方針やベトナム戦争反対)に賛成か反対かは、私にとっては、彼らがいちごが好きかどうか、と同じくらいにどうでもいいことである。」
と言い放ったのであった。

「いちご白書」の著者は、ニューヨークのコロンビア大学の当時19歳の学生のジェームス・クネンであった。彼は1968年にベトナム戦争反対運動に参加したその体験を小説に書いた。

この「いちご白書」と同名の映画作られ、1970年にアメリカで上映された。

ベトナム戦争を推進していたアメリカ国防総省系のシンクタンクIDAに、大学が秘密裏に研究協力していたことへの反対運動であり、自分たちの学費を払っている大学の運営に対する抗議運動だった。のである。と。

アメリカの大学は多くの個人寄付を受けており、大口の寄付者の意向を無視して大学運営は成り立たない。らしい。

だから、理論や理想よりも実利第一主義の冷徹さからすれば、献金の対象者でもない学生や教員のことなどは、いちごが好きかどうか程度の問題で、歯牙にもかけていない。と言うことらしい。

それでも、反対すべきは反対と声を上げるのが、若者の特権であると言う意味が込められているようである。

「いちご白書」と言う可愛らしい名前の裏には、持つものも持たざるものの剥き出しの厭らしい現実が秘められていたとは、今更ながら、自分の愚かさに気付かされた。

「いちご白書」と言えば、暗い映画館の中で、オネーちゃんと指を絡み合った手のひらが汗ばんでいた記憶しかなかった、まだ青きイチゴの如き青春時代であった。男って、本当に馬鹿ですね。