夫婦円満の秘訣ってなんだと思いますか?


おしどり夫婦とかいうけど、アレって本当なんでしょうか?芸能人の場合、いろいろありそうな気がします。テレビ向きの顔と、プライベートでは違うかも知れません。公言するのはタダですからね。あくまでもイメージですから。


今がシュンです。S的雑談します。


夫婦円満の秘訣はどちらか一方が折れること、一歩引くことです。


かつて日本が家父長制で、イエというものが絶対視されていた時代、奥様は一歩、いや二歩も三歩も引くことによって陰から支えてました。


昭和の伝統的な家族のあり方は亭主関白ですよね。父親のいうことは絶対で、口答えもできないような感じでした。今だったら老害と言われそうなことでも家族は耐えていたのかも知れません。


高度経済成長が夫婦間の格差を是正していった。農村から都市部へひとが移り、核家族、共稼ぎが増えていった。相対的に専業主婦が減っていった。


単なる主婦が共稼ぎとはいえ収入を得て経済力をつけた。


さらに高度経済成長は大量消費をもたらした。可処分所得が増え、都市部を中心に主婦はデパートなどで買い物するようになった。消費は美徳になっていった。消費の主役は財布を握る主婦になっていった。世の中は女性を中心に経済を回すようになっていった。あくまでもミクロ経済の話ではあるけど、男性優位は足元から崩れていった。


バブル期になるとテレビも雑誌も女性上位になっていった。ファッションやトレンドは女性を意識するようになり、レジャーもグルメも女性が主役になっていった。


男性はアッシーくんとかメッシーくん、ミツグくんなどと呼ばれたり、3高なる物差しも生まれた。高身長、高学歴、高収入というやつね。


さらにオバタリアンなどとも揶揄されるようになっていった。傍若無人に振る舞う我が道を行くような中年女性の蔑称というか総称として使われていた。また、オバタリアンは杉良太郎などに夢中になり、今でいう推し活みたいなことを行っていた。その原資はクレジットカードでローンは旦那様が払うことになる。


大衆演劇界隈にも下町の玉三郎と呼ばれた梅沢富美男が爆誕した。梅沢富美男によって大衆演劇はV字回復した。大衆演劇はオバタリアンによって支えられた。もはや、労働者のおっさんの憂さ晴らしではなくなっていた。


女性は男性を完全に見下していた。男性は一歩引くことでパワーバランスを保っていた。男性はフェミ男くんと呼ばれ、草食系男子の先駆けとなった。


昭和の頃は女性が一歩引くことで夫婦円満を維持していたが、平成になると男性が一歩引くことでお互いをうまく支え合っていたかのようだった。


だが、どちらかが一歩引くということは、片方は一歩譲ることになり、我慢することになるのだ。


誰かの幸せは誰かの犠牲の上で成り立っている。


そんな当たり前のことを享受するものは意識さえしなかった。だって、それが自明、当たり前だと思い込んでいたのだから。


女は男の後ろを歩くのが当たり前

男は女性をエスコートするのが当たり前


お互いを思い遣ってるわけではなかった。どちらか一方が思いを押し付けてるだけだった。


おしどり夫婦もベストカップルも実は本当に幸せだったのかは疑わしい。本当は我慢していたのかも知れない。幸せなフリをしていただけなのかも知れない。幸せとは幸せを演じることだったのかも知れない。


翻って、だったら同性愛はどうなるだろうとふと考えてみた。


今はLGBTがシュンだったりするじゃないですか。同性愛だったらお互いを思い遣ったり、どちらか一方が折れるとか一歩引くとかあり得るのだろうか?


マツコデラックス、アレン様などを想像してみよう。


彼ら、もとい、彼女ら?は果たして一歩引くことなどあり得るだろうか?あり得ないよね。


同性愛ならば性差がない。性差がないということは役割もイーブンなわけだ。イーブンということは相手を慮る必要もなくなる。お互い、エゴとエゴをぶつけ合うのではなかろうか。我が強いもの同士、一切妥協しない。自我と自我がバチバチになり、一発触発。喧嘩が絶えないような気がする。


やがてお互い疲弊して、摩耗して、共倒れしてしまう。同性愛とは共生が難しいような気がするのだ。


もちろん、お互い尊重し合って、お互いのことを思い遣ることができればうまくいくのかも知れないけども、人間関係、そんなに単純なものではないと思う。理想と現実は異なるのだ。


相手の気持ちを想像して、一歩引くことできますか?できませんよね。できないよね。できない。


だから争いが絶えないんだよ。戦争がなくなることもないのだ。


ごめんで済めば警察は要らないと誰かが言ったとか。些細なこと、しょうもないことでも一歩も引かないことはよくあること。年を取ればますますくだらないことで言い争いがちだったりする。前頭葉が弱っているからね。感情に抑制が効かなくなるらしい。


実るほど頭を垂れる稲穂かな。


年を取ると頭を下げることができなくなるみたいだ。プライドが邪魔をするのか、セルフコントロールできなくなるのか。引くに引けなくなるのかも知れない。


でも、そんな些細なことが引き金になって離婚することもよくあるらしい。熟年離婚は決して珍しいことではない。定年退職をきっかけにカミさんがぷっつんすることはあるあるなんだそうな。


おしどり夫婦なるものは男の幻想に過ぎない。女はいつ離縁してやろうか。手ぐすね引いて待っているのかも知れない。


亭主元気で留守がいい。


世の中、勘違いで回っているものはたくさんある。世の中、イリュージョンで溢れている。


勘違い、夫婦円満、プリテンド。


夫婦円満に見えるのは、お互いそう見られるように演じているから。


誰もが役者。バカとバカが化かし合いしているのかも知れない。知らんけど。


メメントモリ、死を思えという。死を直接体験することはできないが、身近な人の死を間接的に体験することで死というものが鮮明に目の前に見えるのではないか。


分かったつもりになってることを改めて分からせてくれるのは相手の存在ありきではないか。


喪失を通して得られるものがあるとすれば死ぬことの克服かも知れない。


ひとは騙し騙し生きている。いつ来るか分からない死というものを意識しないように飄々と生きている。


現実に引き戻す究極の方法は死ではないか。身近な人の死は生が有限であることを否が応でも意識させられる。誰しもいつかは終わりが来るのだ。


西洋にはキリスト教など信仰がある。信仰があるのでいくら我が強い個人であろうと信仰を媒介にして中和し得る面も多々あり得るのかも知れない。


キリスト教は同性愛を禁止していたが、それでもキリスト教圏からダイバーシティという発想が生まれた。さらにいうと禁欲を説くプロテスタントから資本主義が生まれ、欲望に正直になることが美徳であるかのように差し替えられていった。


永遠という概念も死を乗り越えるために作られたものではなかろうか。ひとは無には堪えられない。誰しも自分のちっぽけな人生に意味を見出そうと必死だったりするのだ。


どうせ暇なんでしょ?


まるで全てを否定するかのような悪魔の囁きであるが、暇人は暇人なりにくだらない意味をプリテンドしがちである。


川崎大島劇場、ガンバレ。


いくら抗っても来月には閉館するんだけどね。それでもガンバレという。言うのはタダだからね。ガンバレというのは容易いけど、いったい誰が何をガンバレというのか。


何も考えてないやつほどガンバレと平気で言いがちなのである。


おまえもガンバレよ。いったい何を?


孤独は他者では埋められない。










今がシュンでした。ジャーニー。