大衆演劇のスゴイところ。
大衆演劇自体はマイナーのどマイナー、超アングラかつマニアックな世界で、刺さる人にしか刺さらないニッチもどニッチなカオスであることは言うまでもないんだけど。
大衆演劇界隈には日本の芸能史に燦然と輝く才能がチラホラいたりする。
梅沢富美男然り、早乙女太一然り、コウメ太夫や片岡鶴太郎も、なんだったらビートたけしも大衆演劇にかすっていたりするからね。
ポケモンの松本梨香の父親は元大衆の座長で、彼女自身も子役時代は舞台に上がっていたのも有名な話だし。
さらに、ちびまる子ちゃんの主題歌でレコード大賞まで受賞したおどるポンポコリンまで大衆演劇にかすっていたという話。
おどるポンポコリンを歌っていたのはB.B.クイーンズ。そのボーカルだった近藤房之助をさくらももこに紹介したのがかつて超能力少年と呼ばれた清田少年だった。
ちなみに清田少年は篠原の親戚で、清田少年がブレイクしたのも篠原がスポーツ紙に親戚に超能力者がいると紹介したのがきっかけだったとか。
時期はちょうど浅草木馬館が開業する前後。梅沢富美男の裏メニューとして超能力の清田少年がいた。
まあ、この清田少年ものちにいろいろあるんだけどね。まさに芸能界の裏道だったりする。
以下、引用。
近藤房之助に惚れ込んでいた社長は、何がなんでも大々的に売り出したかったらしい。
ご存知の通り近藤房之助は、1970年代から「BREAK DOWN」などを率いて日本のブルースシーンを牽引してきた、日本屈指のブルースシンガーだ。
そのハスキーボイスと、泥臭く骨太だからこその本物のソウルは、アンダーグラウンドや玄人筋から絶大なリスペクトを集めていたものの、世間一般にはまだ浸透していなかった。
この時、社長はりぼんという漫画雑誌に連載されていた『ちびまる子ちゃん』のテレビアニメ化が決まっているという話を、「超能力の清田青年」から聞いていた。
自身も漫画喫茶で『ちびまる子ちゃん』を読んで深く感銘を受けており、その主題歌を近藤房之助に歌わせたいと考えていたのだ。
少女漫画と、薄暗いライブハウスのブルース。
およそ誰も結びつけないであろう組み合わせを一瞬で見抜く社長のアンテナの広さには、心底仰天した。
確か、「清田青年」の紹介で作者のさくらももこに会って主題歌の話を進めたはずだ。
ただ、直接の窓口は夫の宮永氏が経営する「Chokkan」という個人事務所で、やり取りはすべて宮永氏としていた。
さくらももこが、と言うより、夫の宮永氏が細かくて、面倒くさい人だったことは今でも覚えている。
この時、フジテレビが『ちびまる子ちゃん』を放映することが決まり、担当ディレクターというか、フジテレビ側の交渉役だったのが、亀山(千広)氏だった。のちに社長にまで上り詰め、あのSMAP解散・中居正広騒動の時に定例記者会見の矢面に立っていた姿を見て、長戸大幸は出世する人間を見る目があるな、と思った。
そんなこんなで、『ちびまる子ちゃん』のエンディングの作詞はさくらももこ。
作曲は織田哲郎。
生きる伝説のブルースシンガーの近藤房之助と、同じく本格派ボーカリストとして頭角を現していた坪倉唯子のツインボーカルで、「B.B.クィーンズ」が誕生した。
……誕生したのだが、当初のB.B.クィーンズのボーカルは栗林誠一郎だった。
そのあたりの経緯は、長戸大幸インタビューを読んでほしい。
話を戻すが、音楽音痴の私は社長にこんなことを聞いた。
「B.B.クィーンズって何か意味あるんですか?」
と聞いた瞬間、社長は心底嬉しそうな顔で、
「おまえ、ほんと音楽知らないな!」
と言った。
「やっぱ俺は先見の明があるわ。社員として雇うのは、おまえみたいな音楽素人が一番良いんだよな」
と、やっぱり嬉しそうだった。
この時の私の心境を言葉にするのは難しいが、自我だの自尊心だのはとっくに崩壊しているよな、と思った。
絶対に褒められてはいないし、そもそも褒められるポイントでもなだが、社長から理不尽に怒鳴られないで済むならもう何でもいいや、と投げやりにも思っていた。
「ジャニーズ事務所なんかは特にそうだろうけどさ。従業員を雇う時に経営者が見るのは、熱狂的なジャニーズファンとか、熱狂的なビーイングファンとか、そういう音楽オタクは雇わないんだよ。絶対にタレントに粉かけるし、中途半端な音楽理論を語り出すからな。その点、お前が興味あることは、給料だけだもんな」
高待遇の労働条件にしか興味がない、というのは今でも変わらない。
「音楽が好きってことと、仕事をちゃんとやるってのは別次元の話だからな。英語ができるのと、通訳ができるってのは違うだろ? わかりやすく言えば、車が運転できるのと、F1ドライバーになるのは別モノだからな」
ところで、私は学生時代に「日当が良い」という理由で、イベント司会のアルバイトをしていた。その時に大竹まこと氏と親しくなった。その理由もまた「タレントに興味がない」から、大竹氏も親しくしてくれたようだが、その話を社長が思い出して、
「そうだ! B.B.クィーンズが紅白歌合戦に出るから、大竹まことにも応援として出てもらいたいんだよ! おまえ、絶対話をまとめて来い。絶対まとめろよ」
と言われ、うっかり過去の交友関係を話してしまった自分の脇の甘さに発狂した。
あの気難しい大竹氏と話をまとめる自信など微塵もなく、マネージャーの坂口氏(当時)にオフサイドで話をして何とかまとめてもらおうとしたが、目論見は外れ、「大竹に確認しないと」と言われ、「うわ、これは面倒くさいことになった」と鬱々としていたら、意外にも大竹氏は乗り気で、
「どうせやるなら、(高田)純次もどうだろう」
という話になり、高田純次と大竹まことが「インチキおじさん」の衣装を着て出演することになった。
この日はTBSの日本レコード大賞の生放送(大賞を受賞)の後に、NHK紅白歌合戦という順番なのだが、レコード大賞に付き添った宣伝部の人が、
「信号が一斉に青に変わって、あっという間にNHKに着いた」
と言っていたのを思い出す。
私は大竹まことさんと高田純次さんのケアのためにNHKにいたのだが、びっくりしたのが個別の楽屋は北島三郎クラスにならないとなかったことだ。
1つの大部屋の楽屋に、テレビでしか見たことがない芸能人がたくさんいたのだが、私が覚えているのは谷村新司の性格の穏やかさと、小林幸子のど迫力だけだった。
大竹さんと高田さんのやり取りは、そのまま舞台裏でも変わらず繰り広げられていた。
「純次は営業で行った自衛隊ですごいこと言ったよな」
「どうも三島由紀夫です、ってやつだよねー。大竹、よく覚えてるね」
「こんな服(インチキおじさん)着ていると、売れなかった頃思い出すよな」
「大竹はシティボーイズ(※きたろう、斉木しげる)で結構箱入れてたんじゃないのぉー」
B.B.クィーンズのバックダンサーとしてMi-Keがデビューしたのは、この後だったか。
長戸大幸作詞の「想い出の九十九里浜」は、グループサウンズの楽曲名だけを組み合わせて作った曲であることは有名な話だが、長戸大幸は作詞については並々ならぬこだわりを持っていた。
その作詞の教えについて、B'zのアレンジャーであり天才ベーシストの明石昌夫氏がYouTubeで語っていた。
ビーイングの作詞の鉄則は「言いたいことをそのまま言っちゃダメだ、全部裏返して言うんだ」ということ。
たとえば「キスしたい」と言いたいなら、
「君が見えなくなるくらい近づきたい」
と表現するのだと。
相手に極限まで顔を近づければ、相手の姿は見えなくなる。つまりそれが「キスをしている」という情景の裏返しなのだと。
明石氏が話していたこの作詞の極意は、まさに当時、長戸大幸が明石氏だけでなく、私にも直接言っていた言葉そのものだった。
映像として画が浮かぶか、感情をそのまま説明するのではなく別の表現へ裏返せているか。
長戸大幸が徹底していたその感覚が、明石氏の口から語られるのを聞いたとき、自分の記憶と寸分違わず一致して深く感動した。と同時に、その明石昌夫さんが亡くなっていたことを知り、大きな衝撃を受けた。
「おどるポンポコリン」が大ヒットしたB.B.クィーンズには、長戸大幸作詞、織田哲郎作曲の「ギンギラパラダイス」という楽曲があるのだが、ギャンブル好きで養分の筆者が、パチンコ屋で負けが込んでいた日(いつものこと)、ようやく引いた当たりで「ギンギラパラダイス」を聴いた時(三洋物産のパチンコ『ギンギラパラダイス』の大当たりソング)、当たった安堵感よりも先に、長戸大幸の声で、
「おまえは、仕事だけじゃなく、ギャンブルまで下手なのかバカ野郎」
と言われている気がして、つくづくあの時代がトラウマになっているんだな、と思ったりもした。
引用終わり。
まさか、おどるポンポコリンの誕生にまで大衆演劇がかすっていたとは。
このように、大衆演劇とは絶妙に惜しい世界だったりする。
人材はいるんだけど、花開くのは大衆演劇の外だったりする。大衆演劇でスターになったとしても結局は内輪のみなんだよね。それが歯痒いところ。
林修とうるしの違いみたいなものかも知れない。同じ東大出身でも林修はタレントとしてブレイクして、うるしは代ゼミローカル。まさに、大衆演劇。
代ゼミが今よりイケイケだった時代は金ピカ先生とかツッチーとか西谷昇二とかいたんだけどね。
まあ、西谷昇二はまだ引退したわけではないけど。
いまだにむっちゃんの話で盛り上がってるX界隈。
死人に口なし。
むっちゃんは既に鬼籍に入ったのだから、左翼叩きのどさくさに紛れて珍妙なエピソードは書かない方がいいと思うけどね。
むっちゃんに任せろ。
