ドパガキと大衆演劇。根っこは似ている。


両者とも暇人なのではないか。そして、暇であること、退屈であることを恐れるひとたち。まさに、大衆の本質ではないか。


どうせ暇なんでしょ?


予定もなくソファに沈み、なんとなくスマホを開いて、気づけば1時間が溶けてている。動画、SNS、また動画。楽しかったかと聞かれると、よく分かりません。楽しみたかったというより、ただ退屈が怖かっただけかもしれません。
強い刺激に手が伸びるのは意志が弱いからではなく、退屈な時間を面白がる道具を持っていないからだと思っています。
その道具とは「教養」のことです。
教養があると、些細な風景を見るだけで人生が楽しくなります。たとえば散歩の途中の街路樹。植物を少しかじっていれば、なぜ都会にイチョウばかり植えられているのかという問いが立ちます(火に強いからです)。歴史をかじっていれば、駅前の妙に曲がった道が旧街道の名残だと気づきます。何も知らなければただの道です。少し知っていれば、それは立派な「読み物」になります。
教養とは、退屈な風景をエンタメにかえる「翻訳機」のようなものです。
強い刺激を外から仕入れる必要がありません。目の前の弱い刺激だけで十分に楽しめてしまうからです。逆に教養を持たない人には世界が白紙に見えます。だから、色のついた娯楽を外から流し込み続けるしかない。ショート動画や課金ガチャや酒に溺れがちな人は、快楽に弱いのではなく、退屈に弱いのです。
バートランド・ラッセルは1『幸福論』で「刺激に満ちすぎた人生は消耗する人生である。そこでは快感を得るために、絶えずより強い刺激が必要になる」というようなことを書いてます。スマホもSNSもない時代の、ほとんど予言のような一節です。
強い刺激は打ち上げ花火に似ています。上がった瞬間だけ明るく、消えたあとは前より暗く虚しく感じます。一方で弱い刺激を楽しめる人の日常は、派手ではないけれど薄明るい線香花火です。次の花火をドカンと打ち上げる必要もなく、淡々と楽しめます。
刺激的な体験をつぎ足すより、地味な風景を面白がる目を育てる方が、長い目で見ればずっと豊かです。(もちろんお財布にも優しいです。)
教養とは知識の量ではなく「退屈への耐性」のことなのだと、最近は思っています。

生きる無教養。それが例のプレミアムブロガーの本質なのではなかろうか。


退屈がどうにも我慢できない。それで大衆演劇を何かに託けて通い、最前列の定位置をゲットする。


酒を飲み、そしてそれをブログに書く。


退屈な日常を溶かしていく。それで1日が過ぎて行く。それで1ヶ月が過ぎて行く。それで季節が過ぎて行く。それで1年が過ぎて行く。そして、何も残らないのだ。


3時間あったらあなたは何をして過ごしますか?


公園でぼーっとしてもいいし、カフェで読書してもいいし。

コーヒー一杯で3時間粘るのは流石に営業妨害か。まあ、3時間、最前列の定位置に居座って、ねっとり品定めして、それを良心、良識の名の下にブログにまた書くというのもある種の迷惑だと思うけどね。


良識も

とどのつまりは

粘着よ


良心も

見せかけだけの

邪心かな


恥知らずで悪びれない。暇人だもの。みつを。


今がシュンでした。プレミアム劇団TENGA