大衆演劇とは推し活なのか、日本の文化なのか。
推し活ならば商業的なもの、文化ならばアーティスティックなもの。両者を融合させるのは並大抵のことではないと思う。
推し活だけをフィーチャーすれば下世話なものになりがちだろうし、文化を突き詰めれば高尚なものになりがちだろうし。それによってファン層も変わってくるだろう。
スポーツならば例えばフィギュアスケートなどそれも両立できるかもしれないが、演劇でそれを両立させるのは困難ではなかろうか。
ポップミュージックとクラシックの融合みたいなものだからね。サラブライトマンみたいな?平原綾香のジュピターみたいな?坂本龍一みたいな?
大衆演劇はその相反する矛盾の上澄みだけを全て飲み込んだかのようなごった煮カオス。どっちつかずのまま迷走していそうです。
今がシュンです。プレミアム、プレミアム。
プレミアムの意味、わかって使ってますか?
大衆演劇は日本文化を掲げて、国からのお墨付きが欲しい、助成金が欲しい。インバウンド需要も欲しい。大衆演劇を黒門市場や築地場外市場、浅草雷門、新宿歌舞伎町の賑わいが欲しい。
その一方で、推し活として従来のコアなファンも抱え込みたい。今まで通りの大衆演劇をキープしつつ、さらに上積みもしたい。
大衆演劇の向かっている方向性はおそらくそんなところではないか。いいとこ取りとかなかなか強欲だと思う。安河内哲也の特設単科みたいだ。
ギャラリーストーカーはいらんぜよ。ギャラストギャラドスよりもギャラ上げろ。
大衆演劇愛という名のもとに好き勝手ブログで承認欲求のためにエゴ剥き出しで活動する痛いおじさん。大衆演劇のイメージダウンも甚だしい。
ユーは何しに劇場に?
役者の格付けチェックを行ったり、苦言や提言と称してえて勝手なことをブログに書いてそれを大衆演劇愛だと公言したり。
そういうの、誰も求めてないから。
役者が欲しいのは御祝儀と集客であって、50過ぎたオヤジの付き纏いとかマウントとかではないから。
役者の立場からは言いたいことがあっても言えないだろうし、かと言って無視もできないし、ますます思う壺になっている。
アイツはファンを大切にしない。ファンサをしない、愛想もない、ダメな役者だ。ギャラドスによるレッテル貼りが大本営発表されてしまう。西園寺における旅人よっちゃんみたいにタチが悪い。
そういうマウントは大衆演劇をいたずらに貶めるだけではないか。
ところで、大衆演劇の文化的価値を高めることと従来の推し活を奨励することは両立するのだろうか。
推し活とは商業的なものであって、それを文化的な文脈で捉えるならば、コンプライアンス遵守を徹底しなければならない。
御祝儀の見える化という聖域にまで踏み込まなければいけなくなる。
ファンへの性奴隷とか座員への暴行、馬乗りだとか、そう言った行為は絶対に禁止しないといけなくなる。それは西園寺にとっても大衆演劇にとっても、踏み絵みたいなことにならないか。
当事者は何事もなかったかのように活動しているし、旅人よっちゃんも悪びれずに活動を続けている。
オーショーみたいにぺえぺえだったらトカゲの尻尾のように切り捨てることができたのに。
鉄道博士は消えたけど、旅人よっちゃんはしがみついている。
インバウンド需要が欲しければ、芝居を縮小させて、ほぼ舞踊ショーに特化しないといけなくなる。
さらに手抜き舞踊、御祝儀欲しさにただ客席を回るだけの怠惰な時間なども改めないといけなくなる。役者にダンサー並みのキレが要求されるようになる。ぺえぺえの棒踊りは許されなくなる。歌うならば歌詞は覚えていることが大前提になる。貧乏くさい衣装は許されなくなる。コストもかかるだろうし、誰がそれを負担するのか。
インバウンド需要はないものねだりではないか。アニメやゲームみたいにグローバル化してないし、大衆演劇という日本人にとってもニッチなものをどうやって大成させることができようか。
ギャラリーストーカーみたいな痛客はコンプライアンスからも徹底的に排除しないといけなくなる。役者が言えないのであれば、劇場が守らないといけなくなる。最前列には警備員を配置しないといけなくなる。観客を監視しないといけなくなる。
ギャラリーストーカーによる公開処刑、私刑は許されない。私人逮捕という名の迷惑系YouTuberもいまや徹底的に排除されている。ブログも検閲されるようになるのではないか。
まあ、公式ブログなどでがっつり脇を固めれば、ギャラリーストーカーを排除することはできると思うけどね。役者を守るのはファンではなくて興行主だったり、劇場なのかもしれない。
木川劇場はそこらへんもなあなあだったので、あのようなギャラリーストーカーを助長させて、そして肥大化していった。
時次郎が三吉演芸場などに流れていったのも篠原界隈からは強めの圧がかかっていたのではなかろうか。かつていろいろあったのではなかろうか。
ブログでしか承認欲求を満たせないというのは欲深いと思うぞ。本来ならば、観劇だけで満たすべきだ。なぜそれをブログで反芻して、物申すのか。1ヶ月単位で観劇を総括しようとするのか。
芝居よりも舞踊ショーでの撮影、さらには送り出しでの対応ばかりを欲するのは大衆演劇あるあるではあるが、大衆演劇の文化的価値を高めるという観点から鑑みてもマイナスではなかろうか。
インバウンドから観ても送り出しを日本人ファン同等にするのであれば、役者が英語スキルを磨かないといけなくなる。英語を話せる役者など皆無だろうし。
芝居を削って舞踊ショーに特化すればそれは演劇とは名乗れなくなるのではないか。ますます歌舞伎との距離が広がると思うぞ。
まあ、歌舞伎との差別化を図るのであればそれが最適解なのかもしれないが、大衆演劇が演劇を捨てれば残るのは大衆のみになってしまう。アイスコーヒー、愛がなければスコーヒーなんて宣伝がかつてあったけども。たこ焼きにタコが入ってなかったらただの焼きやと鶴瓶が熱弁していたことがあったけども。
大衆演劇が芝居を軽視し、舞踊ショーに特化したら、たこ焼きからタコを抜いたようなものだ。大衆演劇は肉吸いみたいになれるのかという話である。
肉うどんうどん抜きから爆誕したのが肉吸いである。たこ焼きからタコを抜いたらアウトだろうけど、肉吸いはセーフだった。大衆演劇の芝居軽視、舞踊ショー特化にシフトするのであれば、大衆演劇の肉吸い化を推進していかないといけなくなる。
さらにギャラリーストーカーの規制と排除を徹底するために場内に警備員を配置しないといけなくなる。公式ブログで固めることによってファンブログに圧をかけないといけなくなるだろう。
コストもかかるし、痛みも伴う。踊れない役者は排除されるし、おもんないブログは隅に追いやられる。
自称プレミアムは旅人よっちゃんとともに廃車回送する憂き目に遭うのではなかろうか。
西園寺界隈からの旅人よっちゃんの出禁、廃車回送はいつですか?
変わらないまま変わることなんてできるのだろうか?変わるということは痛みをともなうのだ。
憲法を変えれば当然痛みをともなうだろうし、大阪を副都心にして二重行政解消という名目で大阪市を廃止にすれば行政サービスは大幅にカットされる。
JRから食堂車がなくなり、ブルートレインもなくなり、ローカル線はバス転換されてやがて廃止になり、そして駅からみどりの窓口が消えて、駅員までもが消えてしまったように。
大衆演劇から芝居が縮小されたらどうなるだろうか。それは大衆演劇を名乗れなくなるのではなかろうか。大衆演劇の中道改革連合はうまくいくのだろうか?失敗するだろうか?
インバウンド需要よりも芝居を守って欲しいと思うけどね。
ギャラリーストーカーよりもフツーのおばちゃんを守って欲しいのだ。役者のためにも、大衆演劇のためにも。
今がシュンでした。ジャーニー。





