人間って他人のことは小姑みたいに細かいところまで気になるのに、自分のことになると全くわからないのはなぜだろうか?
今がシュンです。プレミアム、プレミアム。
プレミアムの意味、分かってますか?
隣の芝生は青いといいます。自分の顔が不細工だとしてもそんなものは鏡を観なければわからないし、自分の声がキモくてもそんなものは録音でもしないとわからないじゃないですか。自分の左手を左手でつねることは不可能ですよね。自分の痛みだって分かってるようで実は何も分かってないのかも知れません。
だから他者の存在が必要なのではないか。
人間はひとりきりだと分かっているつもりでも実は何もわかってない。気づいてないなんてことは往々にしてあると思います。哲学用語では即自存在とも言いますね。
猫はニャーと鳴いて自分の存在が分かっても、他者からの視点というものは存在しないと思うのです。
人間というのは他者との関係性によって成り立つものです。そしてその関係性というのは日々作られ続け、そして変化し続けていくものです。それを対他存在と言いますね。
能の世界における我見と離見って知ってますか?
能の演者であるシテは客席からの目線を意識せよとよく言われます。世阿弥が提唱した離見の見ですね。
演者自身が見ている目線を我見といい、客席から見られている目線を離見といいます。
演者が自分の主観、思い込み、すなわち我見だけで踊ってしまうと舞の軸がブレたり、自己満足の演技に陥ってしまいます。客席から見ている自分の姿を背後や遠くからイメージして、客観的に自分をコントロールすることを離見の見と表現しました。
能面を付けたシテは視野狭窄になります。シテは能舞台の構造を基準にしながら、今自分は客席からどう映っているか、どう見られているのか、空間の調和が取れているのかを心の中でイメージする必要があります。
シテが客席のずっと後方や空中を見つめる動作をするとき、演者自身が客席を含めた空間全体を視野に収め、その先に広がる景色を思い描くことで、客席にもその壮大な情景が立ち現れるといいます。客席の目線を意識することが舞台全体を無限に広げる、無限能たる所以です。
世阿弥の言葉として有名な「目を前に見て、心を後ろに置く」という教えも、この客観性の重要性を説いたものです。自分と舞台と観客が一体となる空間を作り出す身体感覚そのものを表してるわけです。
自分の言葉に酔ってるだけの自己満足の極みに過ぎないブログなど読む価値はないと思います。なんの参考にもならないし、クソの役にも立たないからね。我欲のカタマリ、エゴのカタマリじゃないですか。
おっさんのエゴ剥き出しのブログのどこに需要があると思いますか?
何度も言いますが、お客さんは大衆演劇を観に来てるわけで、ブログを読むために大衆演劇を観に来てるわけではないのです。
あいつらはブログを書くために大衆演劇を観に来てると思いますけどね。いやらしい話。
まるで、若い子をナンパするために西園寺に近づいている旅人よっちゃんみたいなものです。西園寺にとっては邪魔者以外の何者でもない。でも、西園寺から面と向かって、オヤジ邪魔だとは排除できないと思います。
それは役者の立場から大衆演劇ブロガーを邪魔だとは露骨に言えないのと似ていると思います。木戸銭払って観に来てる以上、楽しみ方は自由ですからね。
西園寺が旅人よっちゃんを出禁にするなんてできないと思うぞ。仮に西園寺が旅人よっちゃんをストーカーだと警察なり裁判所に訴えたとしてもよほどのことがない限りは却下されるだろうし、そんな噂が立てば西園寺に悪いイメージがまとわりつくだろうし。
それをいいことにあのオヤジは西園寺の終身名誉顧問だと自分のXで名乗り、西園寺界隈のポストを続けてます。西園寺が告訴するというのはリスクが高いと思います。西園寺の周りにはそんな危ないオヤジがいると拡散されたら視聴者が離れるかも知れないし、今後のイベントならびに運営に支障をきたす恐れがあるからね。
あのオヤジはそれを承知の上で西園寺界隈の少年たちをナンパしているわけです。少年たちの同意の上で、お金をチラつかせて。
少年たちが訴えればともかく、その可能性は低いと思いますよ。訴えたところで全てあのオヤジが金を出してるわけで、しかもそれをSNSで一応は公表しているわけだ。アレは旅人よっちゃんが見せられるところをうまくコントロールしつつ、自己アピールをしているわけだ。西園寺に配慮しつつも、西園寺を利用しつつ。実に狡猾だとは思いませんか?
役者が面と向かって、時次郎やプレテンを出禁にするというのは最終手段だと思います。明白な不法行為がない限りは興行主も劇団も訴えられないでしょうし。表現の自由だとか移動の自由は憲法で保証されてますから。
役者の立場から邪魔だとかブログに書くなとは言えないことをいいことにあたかも大衆演劇界隈を勝手に代弁するかのようなブログを書くのはどうなのか。
妄想乙で済ませるしかないのが現状ではなかろうか。顔では笑って心では滅却する。まさに、ウザ過ぎて、滅というやつです。
そうはいうものの、都若丸などは撮った写真は一切ネットに上がるなと公言してます。それはやんわりと時次郎みたいな迷惑系ブロガーの投稿を拒絶しているわけです。あんなに好きな若ちゃんの投稿も拾い画像と拙い文章でしかアピールできない。役者にとって妙なブログで要らんイメージを脚色して欲しくないだろうからね。
つまり、ブログなんざ役者にとって、大衆演劇にとって、クソの役にも立たないとやんわり拒絶しているわけだ。塩対応しているわけさ。カネになったり、集客になるのであれば、もっと好き勝手させると思うぞ。
かといってブログを書くことが自己目的化している輩もいるからね。やつらは大衆演劇が目的ではなく、ブログを書いて承認欲求が欲しいから。中身がない自分の空白を大衆演劇で埋め尽くしたいから。
誰かのために生きないで。
たった一度の人生ですからね。そして、人生は短い。なぜ他人にばかり気を取られて生きるのか。
どうせ暇なんでしょという役者からの冷笑が端的に表してます。暇なんですよ。暇を持て余しているから大衆演劇に通うわけだ。そして、大衆演劇にフリーライドして承認欲求を欲するわけさ。実に強欲だと思う。我欲の極みだね。
自分の健康とか見た目や言動には無頓着なのに、他人の言動は気になって仕方ない。揚げ足取りしたくてしょうがない。
そういう目線でブログを書いてるいやらしいオヤジ。需要なんてどこにもないのに、プレミアムを自称したり、時次郎に仮託して自分語りをする。誰が読むねん、そんなもん。
中島みゆきはこう歌ってる。独りきり泣くことはできても、独りきり笑うことはできないと。
大衆演劇に役割があるとすれば、感動ポルノだと思う。客は感動を買いに劇場まで来てるわけだ。やってる内容は同じでも、最前列に座って、周囲を全て遮断して、目の前に広がる役者に集中する。それをブログに書いて反芻する。
感動ポルノ目的というのもなかなかいやらしい話だけどね。究極のカスハラだと思うぞ。オヤジからねっとり品定めされて、それをブログでねっちょり書かれるとか。役者からすればキモい以外の何者でもない。オヤジがオヤジに惚れられるとか、誰得なのよ。
そもそも大衆演劇とは労働者の憂さ晴らしで盛り上がったと言われている。やつらは目の前の舞台に集中して、その場限りで発散していった。あとでネチネチブログに書いて、ニヤニヤしながらニチャーと品定めされたりとかそんなキモいことはされなかったはずだ。
役者だけでは飽き足らず、他人の観劇にいちゃもんつけたり、他人のブログをケチつけたりしている。そんな権利はありゃせぬ。
別におまえらに許可を得て観劇しているわけではないし。ただのウォッチャーの分際で何を抜かしやがるか。気持ち悪い。
わざわざ川崎大島劇場まで来るのも気持ち悪いわ。まるで死に水代わりに唾を吐く輩みたいなもの。木川劇場とともに散ってくれ。木川劇場が閉館した時点で木川のオヤジは緞帳おろしするべきではなかったのか。なんだかんだ理由つけて延長してるのはなんなん?木川劇場にただ乗りしていただけに過ぎない輩がなぜ大衆演劇の関係者ヅラしてるのか。
キタキタおやじは主人公のニケとククリの冒険に便乗して勝手に着いてくる流れになっている。
キタキタおやじは本来ならばただのモブキャラであり、バグみたいなものだった。それがいつの間にかグルグルのレギュラーとなり、スピンオフされることでグルグルそのものをジャックしてしまった。
旅人よっちゃんが自分のX上では西園寺を完璧にジャックしているようなものだね。やつの中では西園寺は自分の嫁であり、西園寺のファンは俺のものだから。そういう謎理論で動いてる輩だから。
時次郎とプレテン木川のオヤジも同じ。大衆演劇と一蓮托生なのは奴らの勝手に過ぎない。やつらのブログ上では大衆演劇と一心同体になってる。大衆演劇が全てみたいになってるわけだ。
我見でしか大衆演劇を観てなければ、我欲でしか大衆演劇を捉えてない。
にも関わらず、大衆演劇に寄生して、奴らの意識の中では自分が大衆演劇の教祖たらんとしている。
池田大作に心酔するがあまり、自分が創価学会を背負ってると勘違いしている信者みたいなものだ。
客観的に観たら、俯瞰して観たら、やつらはただのウォッチャーであり、ギャラリーに過ぎない。
大衆演劇の構成要素では一切ない。にも関わらず、ブロガーを自称し、まるで大衆演劇学会の池田大作たらんとしている。実にキモくないですか?
何度もいうけど、やつらはただのウォッチャー。モブおじに過ぎない。キタキタおやじにさえなれてないのだ。
知名度も限定的。本人は大衆演劇を代表しているつもりなんだろうけど、役者からは塩対応されて、界隈からは冷笑されている。
本人は他の客やブログを冷笑しているつもりなんだろうけど、自分のことは結局何も見えてないのよ。
ブロガーという気楽な立場から上から目線で好き勝手書いてるだけに過ぎないからね。
観劇のモチベと承認欲求のためにブログをシコシコ書いてるだけ。
誰かのために生きないで。あなた方は大衆演劇の関係者ではないから。単なるなりすましだから。
結局、いったもん勝ちになってる。旅人よっちゃんと同じ。終身名誉顧問とかいったもん勝ちだよね。そんなの事実か否かなんて関係ない。自ら名乗ってそれを既成事実にしてしまえばいい。
大衆演劇ブロガーだって名乗ったもん勝ち。ターミネーターとかギャートルズとかレッテル貼ったもんがちになってる。名指しされた方は反論もできない。一方的に言われっぱなし。
西園寺も言われっぱなし。旅人オヤジはガン無視、塩対応を決め込んでる。相手にすれば図に乗ることは痛感してるだろうからね。
西園寺は旅人よっちゃんとかいうどこの馬の骨かもわからぬオヤジよりも自分の動画を楽しんでくれる、応援してくれるファンにコンシャスしている。無視することが一番だと思っている。内心は苦々しく思っていることは想像に難くないけどね。
時次郎とプレテン木川もそんな感じではないか。中には眉を顰める役者や劇場も存在する。そういうところには近づかないようにもしてそうだ。意外と撃たれ弱いのだと思う。
結局は自分より格下だとみくびる相手を陰湿なやり口でネチネチイジメるような卑怯者だと思うぞ。反論してこないようなところを燃料にして勝ち誇ったような態度でニチャニチャしたブログを書いてる。
旅人よっちゃんと同じ。反論してこないような少年ばかりをターゲットにしている。そういう嗅覚だけはありそうだ。だから西園寺を選んだ。スーツや謎のちゃんねるだったら排除されていた。西園寺やひろきあたりだから調子に乗っていたのではなかろうか。
黙っていたら既成事実化されかねないので発信した方がいいと思う。あんなのガン無視するのが一番なんだけどね。放置したらそれこそ悪性の癌になりかねないから。
誰かのために生きないで。大衆演劇の関係者を自称しても内実が伴わなければ本気で相手にはされないから。
相手にすればそれが燃料になることも知っている。会ったこともないやつにすり減らすのは時間の無駄。なんの得もしないし、クソの役にも立たない。
そもそも所詮は大衆演劇である。一般的に大衆演劇とはニッチなものである。わかる人にだけわかればいい世界だ。それは西園寺も同じようなもの。旅人よっちゃんとか名乗るどこの馬の骨かもわからないオヤジなんかガン無視するのが最適解だ。それによって鉄道界隈のYouTubeのトップに躍進した。
旅人よっちゃんは高い授業料だった。西園寺にとって旅人よっちゃんはケジラミみたいなものではなかろうか。
終身名誉顧問ではない。ただのケジラミである。
大衆演劇プレミアムブロガーでも時次郎でもない。単なるケジラミである。
ケジラミってスミスリン使ってもなかなか取れないんだよね。結局パイパンにした方が早い。寄生する場所がなくなればそこに居られなくなるからね。
パイパンにするとはどういうことなのだろうか。ガン無視するのもひとつのパイパンだが、それでもしばらくはチクチク刺してくるだろうからね。
誰もブログを読まなければ承認欲求も満たされなくなるかもね。相手にしないことが一番なのかも知れない。役者もそうでない人たちも。
馴れ合いになってる役者は無視できないんだろうな。既に関係性、しがらみがある以上は。
誰かのために生きないで。
ひとはひとりでは生きられない。何かに依存したり、寄生しないと生きられないのかも知れない。
それも含めての大衆演劇なのかも知れない。
プレミアムTENGAでした。ジャーニー。


