昨日、今年初サイゼリヤに行ってきた。


サイゼリヤ依存症が発症したのが今年の6月ごろから。それ以来、異様なペースでサイゼリヤに行くようになった。


大衆演劇よりもサイゼリヤ。ほぼ、同じ料金だからね。大衆演劇に行くならばサイゼリヤですよ、奥さん、おばさん、お嬢さん。


ミセスはなんでミセスなんですか?ミセスの意味、わかってるんですか?

グリーンアップルだけだと締まりが悪いからミセスをつけたらしいけど。漢文の置き字みたいな感覚でミセスをつけたのでしょうか?


ミスターだと長嶋茂雄みたいだとか、ミスチルみたいだとか、ドーナツみたいだからとか、ミスターサタンみたいだからとかなのか、ミセスにしたのか。


なんでミセスなんだ?ミスだと失敗みたいだからなのか?サクセスしたかったのか?サクセスだとセックスっぽいから避けたのか?なんのこっちゃ。

ミセスとかセカオワとか生理的に好かない。ああいうキラキラしたのは無理。舞浜にあるネズミ園みたいな感じが無理。ネズミリピーターには悪いけど、無理。ネズミにあまりいい思い出がないというのもある。


妹はネズミ好きみたいだけどね。旦那さんはあまり好きではないらしい。旦那さんケチだからね。ドケチといっても過言ではない。あんなケチでみみっちいやつと連れ子バツイチで結婚したのは失敗…


正月早々、身内の悪口は良くないですね。悪口ではない。本当のことなんだけどね。


ひとは本当のことを言われるのが一番腹が立つのだ。それは代ゼミの富田もスタサプの伊藤賀一も言っていた。たしかにケガニ、タラバガニ。


そんな妹とは些細なことで喧嘩してLINEすらブロックされているみたいなので、なんの音沙汰もなし。


なので、ひとり寂しくサイゼリヤなのだ。


ぱっとサイゼリヤ。


別にサイゼリヤが特別べらぼうに美味いわけではない。大衆演劇よりもちょっと上的な感じ。もう、とっくの昔に飽きてる。もう、しばらくサイゼリヤはいいと思ってる。


でも、オルタナティブがないのだ。サイゼリヤほどコスパよく、無難なファミレスがないというのが実情だ。


ガストもバーミヤンもそこまで安くはない。バーミヤンの紹興酒もシレっと値上げしやがったし。


日高屋は微妙だし、そもそも落ち着かない。町中華もどきだよね。


安くワインが飲めて、飯が食えて、だいたい二千円以内に収まる。それがサイゼリヤ。


今となっては大衆演劇よりもタイパもコスパもいい存在だ。


まあ、大衆演劇では腹の足しにはならないし、変わり映えのしない演目を毎度お馴染みの役者が惰性でやってるのをなあなあで観に行くだけなのだが。


大衆演劇は暇つぶしには全くならない。刺さるひとが人生の隙間を埋めるためにいくようなもの。人によっては癒されるのだろう。自分は全く癒されないので、行っても意味がない。むしろ、大衆演劇を観させられていた被害者だったりするからな。


別に大衆演劇に恨みとか全くない。慣れればそれなりに面白いとは思うし、大衆演劇の良さもそこらへんの人よりかはわかっているつもりだ。


なんとなく沿道で箱根駅伝を別に母校でもなんでもない学校を応援している人たちよりかは理解しているつもり。あの人たちはただ旗をパタパタさせるために存在しているだけのモブだから。高市早苗をふわっと支持している国民みたいな感じだ。


浜崎あゆみのカウントダウンライブというのをYouTubeで久しぶりに観たのだが、YouTubeで見る限りだと浜崎あゆみは相変わらず大人気だなという印象を受ける。


浜崎あゆみというよりか、チームあゆが頑張ってる感じだね。TAでチームあゆ。ダンサーにオーケストラにバックバンドなど、凄まじいプロ集団によって浜崎あゆみを盛り立てているのだ。


まさに浜崎あゆみは大衆演劇一座の座長そのものだ。


実際、大衆演劇でもお馴染みの人形振りで踊ったりしていたし、サインボールを客席に投げ込んだりしていたからね。MCという名の口上挨拶もしていたし。


大衆演劇をアップグレードしたのがチームあゆのような気がする。たとえサクラを使おうと、誇張された演出だろうと、盛り上がっている風に見せたもん勝ちなのだ。


そんな浜崎あゆみに対する率直な疑問をチャットGTPに投げてみた。









強度の高い同窓会、閉じた信仰、内輪向けの存在。

まさに大衆演劇やないかい。

そして、予備校講師もどことなく似てるような気がする。

いまはSNSの時代である。教室という閉じた空間でカリスマ講師が受験生を鼓舞しながら切磋琢磨するような時代ではないのかもしれない。

大衆演劇も予備校講師もオワコンかもしれないけど、それでも救われてる人がいる。知らんけど。

サイゼリヤに依存するのも惰性になっているだけなのだろうか?

そこまで特段美味しいと感じないようなものをなんとなく食べに行くのはなぜなのだろうか?

ひとつは安心感がある。サイゼリヤに行くとなんか安心するのだ。QRコードで注文できるシステムも慣れてしまえば心地よい。マイペースで自分のタイミングで頼むことができるからね。よく考えられたシステムだと思う。

そうはいってもやはり安定の料理も裏切らないクオリティーなので、まあ、無難なのだ。美味いから食べるというよりも、とりあえずどんな時でもフツーに食べられるという感じ。冒険したくない時に食べるもの、守りに入りたい時に食べるものだと思う。

その時の気分に合わせてそれなりにラインナップがあるのもいい。前菜、サラダ、スープ、ピザ、パスタ、ハンバーグ、そしてミラノ風ドリア、デザート。

とにもかくにも赤と白のワインが気軽に飲めるのがいい。サイゼリヤ以上にワインをカジュアルかつコスパよく飲める店はないのではないか。

ワインの誘惑に…

まるでユニコーンのボインの誘惑みたいな感じですよ。こいつはまさに大迷惑だ。

大衆演劇もサイゼリヤくらい熱く語れる要素があれば依存症になると思う。まあ、サイゼほどのパフォーマンスは望めないのではないか。コスパもタイパもサイゼリヤの方が上である。

大衆演劇はぼっちでいっても切ないだけというのもある。ぼっちで来てるひとがいるのももちろん知ってる。ナントカプレミアムとかいまさらジローとかね。

サイゼはぼっちでもいけるけど、大衆演劇はぼっちで観に行きたいとは思わない。ぼっちで行ったとして、それを話す相手がいなければ意味がない。

まさか、ブログで書くとか?よせやい。大衆演劇ほどブログで書いてもしょうもないコンテンツはないよ。生産性ないし、マニアックすぎて界隈が狭すぎるし。他のカテゴリーで書くべきだ。

今日はこんな芝居観て、あの役者があんなこと言ってたとか。そんなこと書いたところでどうせ荒れるだけやん。荒らされるだけやん。事実無根だとか、誹謗中傷だとか、写真は載せるなとか。クソが。ほんと、クソが。大衆演劇界隈はクソだらけや。まあ、ひと握りのクソが撒き散らしてるんだけどね。大半はまともである。

サイゼリヤはぼっちでもいける安心感があるが、大衆演劇にはそれがない。ほぼ宗教だからね。信者は心地いいのかもしれないが、無神論者にとってはそこまで居心地のいい空間でもない。拍手しろと圧をかけられたり、おもんなくなくても周りに合わせて楽しそうなフリをしなければいけなかったり。クソめんどくさいのだ。


隅っこのほうでほっといて欲しいときだってあるのだ。

サイゼリヤは意外とぼっちも多い。昨日は家族9人でドカドカ来ていたやつらもいたけど。正月早々、サイゼかよ。もっと美味しいもん食えばいいのに。クソが。

まあ、その家族にとってはサイゼリヤが無難だったのか。正月からやっていて、おせちにも飽きて、家族揃って入れるところといえば限られた場所しかないからね。

大衆演劇はサイゼリヤに負ける。ゆえに流行らない。ハマるひとしかハマらないガラパゴス、それが大衆演劇だ。

サイゼリヤもガラパゴスではあるけど。ミラノ風ドリアなんてイタリア人は絶対知らないだろうし。

それでもサイゼリヤなのだ。サイゼリヤには吸引力があるが、大衆演劇にはそこまでの引力はない。サイゼリヤがないと困るが、大衆演劇がなくても別に困らない。それが現実である。

あると嬉しいのがサイゼリヤとダイソー。

あっても別にどうでもいいのが大衆演劇とパチンコ屋と麻辣麺。

そんな感じである。