酔生夢死。


まさに大衆の生涯。何も価値ある事をせず、ただ生きていたというだけの一生を終えること。くだらない人生。


カムイ「どうせ暇なんでしょ」


わざわざ遠い川越のセンターまで観に来てやったのに、宴会場の舞台上から大衆演劇の座長もどきにそんなやるせないことを言われてしまうモブな観客たち。


くだらない役者もどきにくだらない人生だと言われてしまった、なんともいえないこの感じ。


この、目くそ鼻くそ感。


話芸がないならば下手なことは言わない方がいいと思うのだ。口は災いの元。


くだらないブログを書くひとをトキ・ジロリアンと呼ぼうか。くだらないことしか書けないのであればプラウザーバックするべきだ。




演劇にせよ物書きにせよ、誰かに見せることを前提とするものには少なからず技術が必要だと思うのだ。


技術なき演劇は価値がない。ただ情に訴えるだけ。それは演劇ではない。単なる茶番、ぺてんである。


仏の顔も三度までというが、情に訴えるのはせいぜい3度までにしておけということ。それ以上続けたら白々しくなり、相手にされなくなるからだ。


大衆演劇って往々にして技術ではなくて、ただ単に情に訴えてるだけだったりする。なので、初見のひとがみても呆然とするだけだろうし、内輪にしか受けないのだ。要はお遊戯会、学芸会みたいなもの。知ってる人が出てるから受けてるだけ。そこにスキルはない。


喜劇が一番難しいとされるのは、喜劇こそ技術が問われるからだ。内輪にウケてるからといって全世界に受けるとは限らない。内輪でウケるのは情動でしかない。情動は技術ではない。


「どうせ暇なんでしょ」というのは情に訴えようとして滑った典型である。観客に対する甘えであり、未熟に対する甘さでもある。それはプロがやることではない。場の空気を凍らせてどうすんだい。


客を笑わせて、泣かせて、そして、怒らせるのが大衆演劇。


情に訴えるだけのものならば観る価値はない。例え暇だったとしても、空疎なものに時間を費やすくらいならば寝ていたほうがマシではないか。


演劇を名乗るならば技術を魅せるべきである。それは舞踊も同様だ。ただ出てきて、フラフラ歩いて、タバコ吸って、胸元出すだけのものに観る価値などあるだろうか。スマホでも観ていたほうがマシである。


スマホに負けるようなものしか提供できないのであれば価値はないと思う。それが大衆演劇の現在地のような気がする。



プロは技術なり知識で勝負するものであって、情動では勝負しない。


例えば、医療や法曹などはまさに技術のみで戦う世界である。


昨今では医療ドラマとか法廷ドラマなどがあるので、大衆は医療や法廷にまで情動を求めがちではある。トキ・ジロリアンの中には傍聴が趣味と公言して、暇つぶしにわざわざ裁判所まで通っている輩がいるらしいけど、典型的な大衆だと思う。


裁判は判例と条文に照らし合わせて機械的に行われる事務処理みたいなものである。民事訴訟然り、刑事訴訟然り。法廷ドラマみたいなものを求めるのならば勘違いも甚だしい。そこに情動を求めるのは大衆のエゴ以外なにものでもない。


大岡裁きみたいなものを裁判に求めて傍聴してるのであればマヌケとしか言いようがない。


医師は病状を鑑みて機械的に治療を行うものである。現段階の医療を超えた奇跡など絶対に起こらない。ダメなものはダメで助からないのだ。医師はどこで見切りをつけるのか、常日頃悩まされている。安楽死の議論もそんな現場からの声により起こっているのだ。


助かる見込みのない高齢者にリソースを割くことは無駄以外なにものでもない。後期高齢者はなるべくならばとっとと諦めてほしいというのが現場の正直なところだろう。


それなのに、大衆は医師に情動で訴えようとする。まるで大衆演劇みたいに。


どうせ助からない老いぼれの命にたいしてそこまで労力を割きたくはない。医療現場はコロナ禍以降逼迫している。そんな暇ではないのだ。


政治家というのは稀有な存在で、大衆に情動で訴える典型だったりする。


アスリートでさえ技術で勝負しているというのに、政治家は選挙に際して最も意識しているのはおそらく、いかにして大衆に情で訴えるのか、である。


辞意を表明した石破茂。


石破氏を叩いて笑う、麻生太郎。


笑いが止まらない。メシうまなんでしょうね。


そんなだから、日本は衰退の一途を辿っているのだ。石破茂が辞めたら次は誰がやるというのか。




小泉進次郎?情に訴えるのは石破茂よりかはうまそうだけどね。典型的なペテン師だろうし。


高市早苗は無理ですよ。なぜに彼女に務まると思うのか。女性だから無理とかではない。冷静に考えればわかると思う。なぜにアベチルドレンである高市早苗を有能だと思うのか。それは勘違いというものである。




政治が情動のみで動くようなことはあってはならない。民主主義を掲げるのであれば、ひと握りのひとしか得しないような世の中にしてはいけないと思う。例え、能面みたいな顔でも日本の現状に即したパースペクティブかつ透徹した政治こそ求められる。日本人ファーストなど論外である。


情動で動くのは大衆演劇くらいで十分なのだ。



笑えない、スマイルおむすび大谷翔平。


味見をしすぎて、味覚がわからなくなるのはよくある話。






整形しすぎてどんどん壊れていってる。今の日本の政治はまさにそんな感じ。


原点回帰なんてできますか?覆水盆に返らずですよ。元には戻れないと思います。



胸元ではなくて、胴元な。


尤もらしいことを言っても誤字脱字すれば台無しですからね。こういうのを見逃してはいけません。


胸元が儲かるって、だっちゅーのみたいな話じゃないですか。


漫飛騨園毛子。


これくらいのネーミングセンスが大衆演劇にあればいいんですけど。ないんだよな、コレが。


これ、何に見えますか?



青いコンテナに黄色い雑巾が詰め込まれてる。


IKEAでしょうか?



いいえ、ヒヨコです。オスのヒヨコ。



鶏卵産業ではオスは不要とされ、廃棄される。


不要なオスは価値がないとされる。


タマゴ産まないからね。オスの時点で明日はないんです。


男は大黒柱として稼ぎ、家庭を養うもの。


それが日本社会では色濃く残っている。


稼がず、家庭も持たず、ただ生きてるだけ。社会のレールから外れた存在。


まるでオスのヒヨコみたいではないか。


オスのヒヨコみたいではないか。


果たして、大衆演劇はタマゴを産めるのだろうか?


オスのヒヨコには明日はないのだ。


いつもの席で、腕組みして、足を組んで、観劇して、傍聴して、感激したとして。


なんの意味もないのかもしれない。



来世は女の子になりましょう。