石油の街で生まれ育った若者が、仲間と共に石油パイプラインの爆破を計画する。集まった若者たちはそれぞれ事情があり……。

 

『たちあがる女』以来の環境テロリストものムービー!構成のメインは「計画の遂行」で、要所要所で各キャラクターの回想シーンが入ってくる。それぞれの事情や思惑が少しずつ明らかになり、最後に全貌が明かされるという仕掛けだ。

 

こういった映画の感想を書くとき、たいていの人は「彼らの思想は理解できないが」とか、「破壊行為には反対だが」といったエクスキューズをつける。そういう人たちって、サフラジェットを描いた『未来を花束にして』や、黒人差別に関する活動の歴史を描いた映画でもそういうエクスキューズをつけるんだろうか。

 

世の中に大きな変革がもたらされたとき、多くの場合は何かしらの破壊的な活動が発生してきた。革命にしろ、反差別運動にしろ、百姓一揆にしろ、破壊を伴う活動や誰かの行動を阻止するような活動が介在しなかったことはなかったのでは?むしろ、そういった活動を抜きに社会を支配しているシステムを覆す手段ってあるんだろうか?なんらかの派手なパフォーマンスは必須なんじゃないだろうか。抵抗にはパワーが必要で、そのパワーをマジョリティの内側に引き起こすためには強いインパクトが要ると思うから。

 

本作は環境テロリスト側から描かれているので、基本的には環境テロに対して肯定的。ただ、いくつかの議論もちゃんと描かれている。石油パイプラインを破壊すると労働者たちが困窮するのではないか?とか、いくら配慮してもなんらかの環境被害は免れないのではないか?とかね。最終的には大儀と目的の前で、それらのリスクをどう勘定するかという話にはなってしまうのだが、こういった活動に対する批判を無視しているわけではないと私は感じた。

 

また、決行の前夜にメンバー同士で交わされる「体制に抵抗して過激な行動を起こす人間はすべて「テロリスト」と称されてきた」という議論も的外れとは言えないわけで(そういう意味ではイエス・キリストもテロリストである)、本作を「(基本はバカな若者の暴走だけど)良くできている」みたいな視点で評するのはあまりにお粗末なんじゃないかなあと個人的には思う。もちろん彼らの行動への意見はそれぞれ異なって当然なのだが、デモへの謎の拒否感と同じような嫌悪感を最初から感じてしまっている人が少なくない気がして、それだともったいないんじゃないかと思う。100年後の未来から見たら、彼らこそが「まともな人々」かもしれないよ?

 

ネイティブアメリカン、公害、巨大企業の利益の前に生活を脅かされる労働者、同性愛者、生まれながらの貧困など、メンバーそれぞれがいくつもの社会的レイヤーを背負っていて、それらが比較的しっかりと語られているのも良い。映画として偏差値が高いとでもいえばいいのかな。それぞれのキャラクターもけっこう魅力的だし飽きさせない。爆弾づくりの過程などハラハラする要素もあるし、よくできている作品だった。