濱口竜介監督による新作。

 

緑豊かな長野県水挽町で、娘と暮らしながら便利屋をしている巧。町にグランピング施設が建設されるという話が持ち上がり、ある日住民説明会が開催される。建設者は東京の弱小芸能プロダクションで、コロナの助成金目当ての事業は穴だらけ。巧らは建設予定地は町の水質を汚染する可能性があることなどを主張し、プロダクションの担当者2人も計画に疑問を抱くようになる。そして、巧としばらく行動を共にすることにするのだが……。

 

「悪は存在しない」というタイトルがかなり重要。自然対人間とを明確に分けて綿密に描いていきながら、目に見えているものの印象が刻一刻と変化していく様を見事に映し出していく。

 

森の木々越しに空を見上げるオープニング。本作全体を支配する自然をこれでもかと捉えていくカメラ。やがて巧たち人間も登場するが、その存在感の中で人間など一部にしかすぎないと思わさせられる。そして、森の中を歩きながら木々の名前を呼んでいく巧と娘。ひとくくりに「森」といっても細部は全く別のものなのだ。

 

スタッフを抜擢したという巧は、何を考えているのかわからない独特の雰囲気の男。娘への愛情はあるようだがその距離感も不思議だ。あんなに人里離れた場所で頻繁に迎えに行くのを忘れるのも不可解だし、写真でだけ登場する娘の母親がどうなったのかも不明。「金には困っていない」と言っていて家具や調度品が綺麗に備わった広めの家に住んでいたが、収入源がなんなのかもよくわからない(便利屋だけじゃ厳しそうだし)。しかし、なんとなく町の人たちに頼られているんだなというのは伝わってくる。

 

巧をはじめとする町の人々は、開拓者ではあるがあくまでも自然に重きを置いて暮らしている。美しい水を美しいままに、鹿の生態系はそのままに、できるだけ人間側が自然に合わせていこうと心がけているように見える。基本的にカメラは常に引いた位置にいて、誰の目線なのかわからない存在としてスクリーンの中の現象を見つめている。

 

最初のクライマックスであるグランピング建設説明会のシーンは非常に面白い。巧ら住人たちの指摘は理性的で核心をついていて、反論の余地があまりない。都会からきた担当者たちは憮然とした表情を見せていて、ここだけ見ると担当者=悪、住人=善という風に受け取れてしまう。しかし、ここで巧は「この町の住人はそもそも全員が移住者である」という事実を告げる。この言葉によって、それまで都会からきた担当者VS自然を守る住人だと感じていた対立軸が揺らぎ、住人たちは都会から来た担当者と自然との間に位置する存在として脳内で組変わった。

 

その対立軸はその後のシーンでさらに揺らぐ。無知で横暴だと感じた担当者もまた理不尽な板挟みに合っていて気持ちの上では巧たちに賛同していることが明かされ、その後の車での会話では彼らの人となりがぐっとビビッドになる。少なくとも、説明会の出席者の中に悪人はひとりもいなかったのだ。なお、町でのカメラとは違って都会と車のシーンのカメラは登場人物の表情にグッと寄っているので、感情の動きがかなりハッキリとわかるようになっていたと感じた。

 

ただ、そういった価値観の揺らぎにおいてクッキリと明確になっていくことが一つだけある。それは「巧がどこまでも中庸である」という点だ。彼は自らの立場を決して明確にしない。グランピング建設に関する問題点は指摘するが、それでも解決への余地があると全体の議論を導いていくし、担当者たちに協力することも拒否せずに連絡先を渡す。彼の態度はいわば「As it is」を保持していくといったもので、自然に対しても、都会からの侵入者に対しても抗わずに共生を模索しようとしていくのだ。

 

そして、物語は突如として不穏に転じ、意表を突くラストを迎える。巧の「As it is」精神は、仮にそれが自分の失敗によって引き起こされた取り返しがつかない事態だとしても揺らがないということなのか。不穏な展開の直前に交わされていた鹿の通り道についての会話で、巧は言い淀んでいた。人為的な影響ではなくても、鹿の通り道が変化するということはあるだろう。それに自分が住んでいる家だって、何らかの動物の行動ルールを変えてしまっていたかもしれない。しかし、巧は自然の形が変わると分かった上で行動するということを決して受け入れることができないということなのか。だから、自然が直接危害を加えてきたときも、それに抗うという発想自体が持てず、咄嗟に下した初めての決定的な決断が「自然ではなく人間側を犠牲にする」だった……そんな風にぼんやりと思った。または、自分自身や人間という存在に対してなんらかの強い怒りを感じていて、自分自身に罰を与えたのだろうか。娘との微妙な距離や迎えを忘れてしまうといった行為も、そんな怒りに関係があるのだろうか。強烈なラストによって突如として放り出されたような感覚を覚えながら、スクリーンに再び映し出された森と空を呆然と眺めるしかなかった。

 

森と人間を映し出すどこか達観したようなカメラ(神の視点のようでもある)、自然の象徴のように表象される鹿、音楽と遠くから聞こえてくる音、そして異様に解像度の高い会話。映画という表現方法をフルに活かした善と悪の揺らぎ(一面的な悪など存在しないという提示)。濱口監督はこれから先、どれほどの進化を遂げていってしまうのだろうか。

 

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