9歳の少女ベニーは攻撃的な言動のせいで施設を転々としている。母親は彼女の扱い方がわからず、ベニーを施設に押し付けている状態だ。もう引き取ってくれる施設も尽きかけていたとき、指導員?のひとりであるミヒャの提案で3週間森の中で暮らすことになるのだが……。

 

これはつらかった。ベニーのピンクを基調としたポップなファッションやテンションの高い映像構成が印象的ではあるのだが、物語としては救いがほとんどないというタイプの作品。

 

父親とのトラウマが原因らしいとはいえ、ベニーの攻撃性はとても高く、はっきりと加害性を伴っている。物を破壊している分にはまだいいが、一度手が付けられなくなるとその攻撃の矛先は人間に向かうことも多く、明確に他の子どもを危険に晒すリスクがある。落ち着いているときは他者を思いやることもできるし、知能もおそらく高めなのだが、引き金を引いてしまったときの危険性が極めて高い子ども。こういう子が存在しているとき、どう対処すればいいのかを問いかける映画になっている。

 

ベニーに対して手を差し伸べる人は何人も出てくるし、基本的に悪人は一人も登場しない。しかし、手を差し伸べると全身全霊で依存してくるベニーを最後まで受け止めることは誰にもできない。中途半端に助けようとしてベニーの絶望をさらに深くするくらいなら、最初から突き放した方がいいのか?ミシャの苦悩は非常にリアルで苦しい。

 

まず、全員がベニー自身に責任があるとは考えていなくて、社会がどうにかしないといけないという認識を共有していることに感銘を受けた。ベニーの処遇を考える会議にはかなりの数の人間が出席していて、真剣にベニーのことを考えて話し合いが行われる。感情的にではなく、あくまでもシステムの中でどう対処すべきかを冷静に話し合っている様子は、子どもの福祉に対するドイツの対応を垣間見ることができて興味深い。

 

しかし、それでもベニーの扱いについては答えが出ない。母親が引き取るのがベストではあるが、おそらくあの母親自体が何らかの発達または精神的な問題を抱えているので、それだけを責めることもできない。実際に彼女がベニーを引き取ったらおそらく悲劇が起こるだろう。「お母さんと暮らしたい」というベニーのたたひとつの願い。それを叶えることが現実的に不可能である以上、最終的には一定の年齢になった時点で精神病院に隔離するしかないのだろうという「ゴール」が控えめに示されているという容赦のなさ。そこにあるのは、安易な救いは欺瞞でしかないという強烈なメッセージだろう。

 

終盤でベニーの生死が曖昧になるシーンがあるのだが、そこでベニーを死なせて「かわいそうだった」と涙を誘うような卑怯な結末も用意されていない。むしろ、一瞬でもベニーが死んだと思わせたことで「ホッとした」と観客が思ってしまうであろうことを見越した上で、観客に「あなた今、ホッとしましたよね?」と突き付けているように感じた。ベニーは生きているし、これからも生き続ける権利がある。じゃあ、どうする?今の大人たちにはこの罪のない少女を救うことができない。それはなんと残酷で罪深い事実なのか。首根っこを掴まれて、目の前で大声で糾弾されているような錯覚を覚えるほど強烈な問題提起。にわかには信じがたいほど完成度の高い演技を見せているベニー役のヘレナ・ゼンゲルが今も脳内で叫んでいるような気がする。「逃げるな!」と。