作:別役実/演出:加藤拓也

 

【あらすじ】

 

ある日、ある所に、「棺桶」を担いでやって来た五人の紳士たち(堤真一・溝端淳平・野間口徹・小手伸也・藤井隆)。
どうやら、五人のうちのひとりが懸賞のハズレくじでもらった景品らしい。せっかくの景品を役立てるためには、仲間の一人が死んで棺桶の中に入らねば、と、五人の議論が始まった。いかに本人が死を意識せず、痛みを感じる前に死ねる方法がないものか、、、と模索する五人。そこへショッピングバッグを抱えた女性二人(高田聖子・中谷さとみ)が現れた。彼女たちは、同じ懸賞の当たりくじの当選者たちだったのだ。そして、その一等賞の景品とは・・・?

公式HPより)

 

70分の不条理劇。

 

ホームをイメージしたセットにやってくる5人の男。棺桶をかつぎながら訥々と発言していく彼らの会話は要領を得ないが、なぜか笑えてくる。懸賞で棺桶をもらうとか、一等は青酸カリだとか、とりあえず棺桶には死体が必要だから死んでみろとか、謎に満ちた情報がポンポンと出てくるのだが、彼らの意見はなかなか定まらずに堂々巡りをしているようだ。

 

男性たちは個性もバラバラな有名俳優ばかりだが、どちらかというと均一性を感じる演出に感じた。もっとオーバーにデフォルメして積極的にナンセンスな笑いをとっていく方向性もあるような気がするがそうではなく、あくまでもナチュラルなテンションで淡々と真面目に進めていくことに可笑しみを滲ませていく感じだ。ともすれば退屈に感じるほど凹凸がないのだが、女性二人が乱入してくることで場が大きくかき回される。

 

男性たちが「何も決めない、決められない、決めようとしない」のに対して、女性二人は「すぐに意味を下す、すぐに決定しようとする、すぐに実行に移る」という行動を取る。決めない男たちと、強引に決めまくる女たち。なぜか死がネガティブに捉えられていない様子の舞台上の世界では(ちょっと『モジャ公』の誰も死なない星のエピソードを思い出した)、水が干上がってカラカラだという事実も明かされる。

 

常にそこにある「死」。そういえば、駅のホームという美術セットからして「死」を連想させる。飛び込めばすぐに死ねる場所で、死を待つことしかしない男たちの中に、迷わず死に突き進んでいく女たちが台風のような衝撃を与えて過ぎ去っていく。

 

女たちが去った後で残された男たちは、上から落ちてきた紐についても、停滞した状況を打破してくれる可能性が大いにあるにも関わらず、「何もしない」とう選択をする。何もできないのか?何もしないことを選んでいるのか?どちらなのかは判然としない。巡り巡って混とんとしていく会話からわかるのは、「結局何もしない」という事実だけだ。

 

何もしない、何もできない、何もなしえない5人の男は風刺的だが、現代社会においてはそこまで滑稽に感じられないのが皮肉だ。本作が書かれたのは1992年。ソ連が崩壊し、湾岸戦争が勃発し、PKO法案が可決され、バブルが最後のときを迎えていた当時においては「何もしない」彼らの姿はもっと狡くて滑稽な弱気存在として観客の目に映ったかもしれない。しかし、今においてはどうだろう。デモをする人間を迷惑な存在だと見なしたり、アーティストが政治的な発言をすることを嫌がるなど、冷笑的な態度が蔓延している今の世の中では、5人の紳士の態度が批判されるべきものとは捉えない人が多いのではないかという気がする。

 

出演者は皆よかったが、場を切り裂くような高田聖子の鋭く華やかな存在感が最高だった。常に死の気配がする舞台上で、彼女が見せた「死に向かっていく生」の圧倒的な輝きが全体の中ではとても重要だったと思う。