ビム・ベンダース監督が日本を舞台に綴った最新作。

 

渋谷区の公共トイレの清掃員として働く平山は、スカイツリー近くのアパートで慎ましく暮らしてる。早朝に目覚め、身支度をして大切に育てている植木鉢に水をやり、決まった缶コーヒーを買ってから車に乗り込む。決まったルーティンに従いながら丁寧に仕事をし、日々起こる少しの変化を味わっている平山の姿を、周囲の人々との関りと共に描写していく。

 

とても良い映画であることは間違いない。それが大前提だが、どうにも引っ掛かる部分があるのも否めない。それが正直な感想だ。

 

平山はトイレ清掃員というブルーワーカーだが、極めて文化的な生活をしている。部屋の本棚にはかなりの量の文庫本がならんでいるし、車には大量のカセットテープがしまわれている。毎晩寝るときには本を読んでいるし、彼が文化的で知的レベルが高い(または、そのような生活をしたいと望んでいる)のは冒頭から明らかだ。毎日昼休憩を取る公園では木漏れ日の写真を撮り、樹木の苗を部屋で大切に育て、休日には古本屋を訪れる。

 

ダメな同僚に困りながらも、彼がふと見せた優しさに微笑んだり、パティ・スミスを気に入った女の子との出会いに幸せを感じたり、トイレ掃除をしていく中で訪れたささやかな出会いに心を躍らせたりする平山の姿は素敵だ。それは、「こんな風に生きられたら」と思わせる生き方であり、極端にセリフがすくない役所広司の演技が表現するありとあらゆる感情の幅は驚異的で、本作全体が奇跡のような輝きを放っている。涙を流してしまったし、人生ってなんて豊かで美しいのだろうと天を仰ぎみたくなる「映画の喜び」に満ちた傑作だと思う。これは紛れもない本心だ。

 

しかし、同時に私は居心地の悪さも感じてしまった。本作を観て『パターソン』を想起する人は多いと思うのだが、「文化的・芸術的なものをよすがに、日々の小さな変化も逃さずに生きる実感を得ようと丁寧に生きる男」を描いたこの2作の相違点も私は同時に強く感じ、それがずっと棘のように心に刺さっている。

 

パターソンは、おそらく貧しい生まれだ。元軍人であり、多分戦場で心の傷を負っている。彼は文化的素養のある環境で育っていなかった可能性が高いが、芸術家気質の妻と一緒にいることも影響して、詩を書き続けている。私は、彼にとって人間性を取り戻すための手段こそが詩であり、妻であるという切実さを強く感じた。芸術が彼の単調な日々を輝かせ、愛が彼の悲しい過去を価値あるものに変えるのだという切なる願い。それを「切実さ」と私は呼びたい。

 

平山は逆だ。最初彼が読んでいたのは、中産階級(もっと上級かな)出身で、アメリカ南部の人々の意識を時に労働者階級の立場からも書いたフォークナーの『野生の棕櫚』だ。その後に読むのは、幸田露伴の娘として生まれ、父とのエピソードや父への複雑な想いも見事に描き綴った幸田文のエッセイ集『木』。これだけで、平山はパターソンとは違って文化的でかなり教育レベルが高い環境で育ち、さらに父親との複雑な関係の末に今の生活を「敢えて」今の生活を選んでいるのだなということが暗示されている。そして、それは途中で登場する彼の家族の登場によって確信へと変わった。

 

もう一つ登場する本(の中の短編)については、かなり明確に平山へのSOSとして言及されていた。私はあのあたりの小説が好きだったのでいずれもピンときたのだが、おそらく音楽に詳しい人であれば音楽によって暗示されている要素も多く感じ取るのだろう。フォークナーを読んでいる時期にスナックで『朝日楼』が歌われるのも明らかに重ね合わされているわけで、ベースとして平山の中にある文化的な部分が基準で、観客も同じ地点にいることが大前提で、その上で「敢えて」ブルーカラーとしての丁寧な生活を嗜んでいるとでもいえばいいのかな……唯一出てくるホームレスは田中泯で、スナックで歌うのは石川さゆりで、ちょい役でありとあらゆる俳優や文化人が出てきて、掃除するのは有名デザイナーがこぞって建てたオシャレなトイレばかりで(汚物や吐瀉物自体は画面には映らない)、その上で「ほら、こういう生活って素敵だよね」と提示されていることに対する後ろめたさというか。

 

これを、「素敵。私たちはかけがえのない1日1日を積み重ねていて、世界は素晴らしい」と総括してしまっていいのか?東京の街からはホームレスが排斥され、ときに殺され、私は息子を一人でトイレに行かせるときに常に恐怖を覚えているのに?おそらく明け方の公衆トイレの扉を開けたら、悲惨な状態になっていることも多いだろうに?

 

個人の物語として観れば大傑作だが、その外側にある現実社会を意識すると後ろめたさを感じてしまう。『パターソン』との比較でいうと、「切実さ」を感じられなかったのかもしれない。そんなアンビバレントな気持ちに引き裂かれながらも、涙を流さずにはいられないという、なんとも形容しがたい映画体験となった。

 

そういった複雑な感情を抜きにして、最も好きだったのは影鬼のシーン。あとやっぱりラストシーンですね。すごいよ役所広司。

あと、カメラ屋の店主役にめちゃくちゃビックリして声が出てしまった。なんで古本屋じゃなくてカメラ屋なのよ笑