ダーレン・アロノフスキー監督の最新作。同名の舞台戯曲の映画化。

 

 

恋人を失って以来、暴食を繰り返して超肥満体になってしまったチャーリー。看護師である親友のリズが面倒を看てくれているが、保険未加入なので病院に行こうとしないため体調は悪化する一方。このままだと週末までに死ぬとリズは警告するが、チャーリーは生活を改めようとせず、オンラインで大学のエッセイクラスを教える以外はずっと座って暮らしている。そんなチャーリーの元に、ニューライフ教会の宣教師トーマスや、8歳のときに置いてきた娘エリーが訪れるが……。

 

200キロを超える肥満体を演じたブレンダン・フレイザーの名演が各所で絶賛されている本作。グロテスクともいえるほどの描写を織り交ぜながら、チャーリーの部屋の中で繰り広げられる濃密な対話。徐々に明らかになる過去、それぞれの苦しみ。とても重いが最後には希望を感じる……そんな作品だった。

 

ただ、どうにも映画では納得できない部分がいくつかあったため、すぐに原作の戯曲を読んでみた次第。以下、原作との違いについても触れながらネタバレありで書いていこう。

 

【以下ネタバレあり】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が納得できなかったのは2点。ひとつ目は、チャーリーがトーマスの話を聞こうとする理由。家に入れることすら意味がわからなかった。あと、なぜチャーリーが「正直であれ」と言い続けるのか。その理由がよくわからなかったのだ。だってさ、チャーリーは自分に正直に生きたことによって色々失ったし、他者の正直さによって傷ついているわけだしさ。

 

さて。それでは原作との違いを列挙していこう。まず大きいのは、チャーリーが家を出た時期。映画ではエリーが8歳のときだったが、原作ではエリーが2歳のときだった。8歳と2歳じゃあ父親に対する感情はけっこう違うよねえ??また、映画で出てきた鳥と皿は映画には出てこなかった。あの皿を割ったのはエリーなのだと思われるが、映画の方がよりエリーの父親に対する愛憎が強調されていたといえるだろう。(本当は父親を求めているという要素を強めていた)

 

続いて、ピザ屋。ピザ屋の表情とその後のチャーリーの暴食。これは原作には一切ない。原作では、エリーとトーマスが「Disgusting」というだけ。モニターの向こうの生徒たちが、姿を現したチャーリーをスマホで撮影したリもしない。映画は意図的に醜悪な描写を大幅に増やしていることがわかる。

 

もっと言ってしまうと、原作のチャーリーは映画版と少し印象が違う。原作ではトーマスに自らアランのことをけっこう詳しく語るし、もっと冷静な人物に描かれている印象。

 

さして最大の変更点が、モルモン教をニューライフにしていること。原作ではトーマスはモルモン教徒なのだ。アイダホ州はユタ州の次にモルモン教徒が多く、リズの家庭がモルモン教なのも自然な感じがする。さらに、モルモン教は酒もタバコもコーヒーすらNGなので、トーマスが大麻を吸うことに対してエリーが過剰にビックリするのも自然。しかし、わざわざ映画ではニューライフに変更しているのだ。なんで???モルモン教からの圧力??

 

ニューライフは銃乱射事件などあまり良いイメージがないかなり特殊なプロテスタント系カルト(って言ったら怒られるかな)だと思うのだが、トーマスが逃げている理由も原作とかなり違った。原作では、志の低いペアの宣教師に腹が立ってボコボコにしたという理由で(モルモン教はペアで宣教活動をするのが決まり)、原作のトーマスの方がずっと狂信的なイメージが強い。そしてもちろん、チャーリーとトーマスの議論の対象も聖書ではなくモルモン書。

 

また、チャーリーがトーマスに話を聞きたがった理由も、原作では明確。家族から勘当状態だったアランの元に、ある日父親が訪ねてきて「なんでもいいから今週の礼拝にだけは来い」と言って帰っていった。チャーリーは止めたがアランは礼拝に行き、その日以来人が変わったようになり衰弱し死んだ。チャーリーはその日に礼拝で何があったのかを知りたくて、トーマスにそれを探ってほしかったのだ。結局、礼拝で語られたのはヨナとクジラのエピソードであり(逃げようとしたジョナを神はクジラに食べさせるが、ジョナが改心するとクジラは彼を吐き出したという話)、「神の意志から目を背け続けているアランは、ジョナのように救われることなく死ぬ」という呪いをかけられたというのが真相だった。

 

結論として「アランは神に背いてチャーリーを選んだから死んだ」と言ったトーマスに対し、チャーリーが激高するのは原作も映画も同じなのだが、このクジラのエピソードと「白鯨」が呼応しているのは確かなので、そこを変えてまでなぜニューライフに……(以下繰り返し)

 

チャーリーは白鯨であると同時に、クィークエグを失って1人生き残ったイシュメイルであり、エリーは白鯨であるチャーリーの影に怒り続けるエイハブである。白鯨としてのチャーリーと、エイハブとしてのエリーの対峙と最後の最後における邂逅に主軸を置きすぎたために、トーマスの描写と立ち位置が弱くなりわかりにくい部分が出てきたということなんだろうな。

 

「なぜアランが死んだのか」をずっと胸に抱いてきたチャーリーは、トーマスの解釈を全否定する。いくら何かを失っても、たとえ命を落としても、自分が愛し信じるものを貫き続けた人生が悲劇なわけがない。それは強烈なエゴには違いないが、チャーリーにとっては唯一絶対に真実でないといけないのだ。アランの死の直前に起きた出来事を知り、その解釈にハッキリと怒りを提示したことにより、チャーリーが「正直に生きること」に執着する意味がやっと分かった気がした。自分の人生におけるあらゆる後悔や矛盾を乗り越えるため、「自分は正直に生きる」ことにこだわり続けたのかなと思う。

 

そして、クィークエグの棺の一部につかまって助かったイシュメイルが「人間」によって救われたように、エリーは図らずもトーマスを救い(あのまま帰ってアランと同じ仕打ちをうけたりしなければだけど……)、メアリーはアランを助け、リズはチャーリーに寄り添い続けた。リズは、原作では「アランのときと同じように死に抗わないことで私を苦しめないで」という意味のことを何度も言っていてさらに切なかったのだが、それでも彼女はカロリーたっぷりのチャーリーの好物を買ってきてあげるのだ。自分の苦しみを超えて、誰かに寄り添うこと。人間にはそれができるし、人間には人間を救う力がある。


あ、あとエリーの書いた文を読んで「5.7.5じゃん」って笑うところが好きでした。ここ以外も、笑うと苦痛がやってくるという描写はとても効いていた。とても哀しい。