『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ監督がジェフリー・ラッシュを主演に迎えて作ったミステリー。周りで好きと言う人が多く、以前から観よう観ようと思っていた作品。

 

 

 

 

著名な鑑定士であるヴァージルは、潔癖症で独身主義者。豪邸に住み人々の尊敬を集めているが、実は友人のビリーを使ってオークションで不正を働き、転売で暴利を貪るという裏の顔を持っていた。さらに、自宅の隠し部屋に女性の肖像画ばかりを収集し、毎日眺めて悦に入るという秘密の趣味まで……。そんなヴァージルの誕生日の朝、オフィスに一本の電話が入る。電話の主は若い女性で、亡くなった両親が残したヴィラにある品を査定してほしいという申し出だった。しかし、約束の時間になっても依頼主は現れなかった。ヴァージルは激怒するが、「交通事故に遭って意識不明だった」という弁解を聞き入れて再度訪問することに。しかし、やはり依頼主本人は姿を見せず……。

 

<以下ネタバレします>

 

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる「どんでん返し系」ミステリー。そういうタイプの映画だと知っていたからかもしれないが、かなり初めの方からオチは読めた。というか、ものすごーくわかりやすく伏線が張られているので、気を付けていれば誰でも「あれ?」と思うだろう。

 

結局のところ、ずっとヴァージルに詐欺の片棒を担がせられていたビリーが、最後まで自分の画家としての能力を認めてくれなかったことを恨んでヴァージルを嵌めたということなのだが、「いくらなんでもヴァージル迂闊すぎない?」っていうポイントが多い。美術界を激震させるような大それた詐欺を手伝わせているくせにビリーに対する見返りが少なすぎるし、夢中になった女性に簡単に「秘密の部屋」を見せてしまうし。でも、その答えをすべて「恋の病」に集約させていることで、なんとなく納得させられてしまう。

 

いつまでも姿を現さない依頼主クレアにヴァージルが心惹かれていく過程や、いざクレアと結ばれてからヴァージルが判断力を失ってしまう様子には妙なリアリティがある。はっきりいって、老人ヴァージルが20代のクレアに恋焦がれていくのは気持ちが悪い。ストーリー上クレアを20代にする必要性はないわけで、50代の美しい未亡人とかいう設定でもよかったはず。むしろその方がリアルだし、クレアの話にも説得力が出るだろう。(14歳からずっと外に出ていなかったのに、あんなに美しく身なりを整えているのは不自然)

 

しかし、クレアを20代の若く美しい女性にしたことで、ヴァージルの愚かさが際立ち映画全体のお伽噺っぽさが増したのは間違いない。なんとなく現実感がない状態で進んでいくので、ストーリー自体の非現実性に目がいかず、高尚な雰囲気が保たれている。フェティッシュな演出やエロティックかつロマンティックな空気、さらにアンティークな美術品や家具+オートマタや歯車といったスチームパンクっぽい美術が融合し、なんとも美しく魅力的な世界観が醸造されているのだ。

 

正直、タネ明かしのためにすべてを構築していく本作のようなタイプの映画はそこまで好きではない。中に小人が入っていたにも関わらず常に正解を答えたというオートマタ≒ヴィラの向かいのカフェにいる小人症の女性(すべてを正確に覚えている)という分かりやすすぎる配置や、ヴァージルの恋のアドバイスをしながら罠に嵌めていくロバートの怪しさ満点の雰囲気や、ロバートの彼女による不自然すぎる発言など、あまりにわざとらしくて興ざめする部分も多々あった。

 

でも、「こじらせた性悪の童貞おじいちゃんを皆で騙したよ!」というストーリーを、ここまで雰囲気と情緒たっぷりに肉付けしたのは素直にすごいと思う。いい塩梅でロマンチックで、いい塩梅で気持ち悪くて、いい塩梅にミステリアス。ともすればB級映画になってしまってもおかしくない題材を、ここまで素敵なパッケージに仕上げた手腕は尊敬する。

 

あと、ヴァージルが行っていた美術品詐欺がバレないというのも不思議。いくらなんでも他の鑑定士に不審がられるのでは?と思うのだが、著名な鑑定士の鑑定ってそこまで信用を置かれてるものなのか?あれがまかり通る世界なのだとしたら、美術マネー界の闇は深いな。

 

ラストについては、病院とプラハ引っ越しの時系列の攪乱がちょっとわざとらしいと思う。秘書が郵便物を持ってきたことを考慮すると、おそらく病院の方が前に起きた出来事なのだろう。騙されたショックで病院へ→クレアの言葉を思い出して(手紙が関わっているのかは謎)立ち直る→プラハへ引っ越し→クレア思い出の店で待つ(クレアが実際に来るかどうかは不明)という流れだと私は理解したのだが、一見すると病院が後だと思えるようにもしていて意地悪。こういう技巧的な要素を感じるとちょっと冷めちゃうんだよなあ。