1979年のサンタバーバラに住む15歳の少年とシングルマザーの母。

同じ建物内の住人や、少年の幼馴染の少女との関わりを描いた物語だ。

 

1979年は、私が生まれた年。

時代が移りゆく当時の独特の空気感が、目から、耳から流れ込んでくる。

 

映画の冒頭、離婚の際に元夫に譲られた旧式の車が炎上する。

実に印象的で、象徴的なシーンだった。

 

いやがおうにも急速に変化していく価値観。

いやがおうにも急速に成長していく思春期の息子。

シングルマザーとして自分の足で立ち続け、

自身の考えを大切に、息子を1人の人間として尊重して

生きてきた母ドロシアではあるが、

そんな彼女ですら急激な変化の前に戸惑いを覚えていた。

 

ドロシアは、息子が想いを寄せる幼馴染の少女ジュリーと、

ルームシェアをしている進歩的な写真家アビーに

息子ジェイミーの世話をしてくれるように頼むことにする。

 

ジェイミーは、家庭環境や性の悩みを抱えるジュリーに寄り添い、

アビーからは急進的なフェミニズム思想を学ぶ。

 

自分では時代の変化と息子の変化に対応しきれないと想い

2人の女性に息子を託したドロシアだったが、

予想以上に2人に影響されていくジェイミーを見て不安を募らせる。

 

ドロシアは、若者文化を否定しない。

むしろ、積極的に理解しようとする意志がある。

また、アビーとジュリーに対しては率直に意見を述べ、

衝突も辞さない率直さがある。

それでも、ジェイミーとはうまくコミュニケーションが取れない。

 

アビーには、「人生で最も重大な出来事は出産だった」と語りながら、

ジェイミーには「私は幸せではない」と言い、踏み込まれることを拒否する。

それは、ジェイミーを1人の人格として認めているからこそであり、

「あなたがいるから私は幸せ」と、自分の幸せを息子の肩に背負わせないよう

心に誓っている証拠なのだろうと私は解釈したのだが、

まだ15歳のジェイミーにはうまく伝わらない。いかんせん率直すぎる。

 

ドロシアは、相手に理想を押し付けるということに対して、過剰なまでに自戒している。

アビーとジュリーは、ジェレミーに理想の男性像を投影しようとするが、

そんなことは土台無理な話だということに気づかされる。


本作は、とても会話の多い映画だ。

誰かと誰かが議論していたり、

未来の視点から過去を見つめるモノローグが頻出し、

「言葉」の印象がとても強い。

 

それでも、ジェイミーとドロシアにとって必要な

ごく簡単な会話に辿りついたのは、最後の最後。

とはいえ、完全に理解し合えたわけではない。

 

しかし重要なのは、『20センチュリーウーマン』が明るい映画だということだ。

 

家族でも他人でも、完全に誰かを理解することなど、不可能。

でも、それでいいのだ。違う人間なのだから当たり前だ。

 

大切なのは対話であり、理解しようとする気持ちであり、

変化を怖れない姿勢であり、傷つくことも受け入れる強さである。

 

新しい時代に理解があるつもりだったドロシアは

自分の中にある保守的な部分を知り、

進歩的を自負するアビーは、自分の中にある子供のような弱さを知る。

不安定な家族関係や、男性への従属的な姿勢を見せていたジュリーは、

自分の中にある意外な強さと傲慢さを知る。

 

アビーとジュリーがその後に辿った人生の違いも面白い。

 

そして、20世紀の終わりとともに人生を終えたドロシア。

ドロシアの中に吹き荒れた価値観の揺らぎは、

20世紀という時代そのものであったのだろう。

 

10年後、私の息子は15歳になる。

私はそのとき、彼にきちんと向き合うことができるだろうか。

この映画もまた、「これは私の物語だ」と思わせてくれる傑作だった。