ikiteikukoto | 震災後の海おんなのブログ

震災後の海おんなのブログ

震災からの記録です。

今の仕事をしたい、と決めてからもいろんなことを学ぶ毎日です。

 

学び、教えられるほど、私は良い過程で過ごしてきたのだと感じます。

 

私が安置所巡りをしている時から、感情を停止してたと思います。

 

あれだけの遺体を見て回るのは、日常にはない事だからです。

 

やっと見つかって、積み木のようにほかの棺桶も一緒にトラックに積み、1時間くらいの火葬場へ向かう。

 

骨になるまでの時間ずっと外を見て誰の言葉も聞き入れたくなかった。

 

実際、誰にも何も言わず、ただ座っていた。

 

本当は、来てくれた方にお茶やお菓子やいろいろなもので接待し、もてなさなければならないのに、私はずっと座って何も言わず、感情が無い人形のようにただ無になって座っていた。それをみんなほっといてくれました。

 

この前に、何体も遺体が住んでいる近くで出たので、娘は内陸に住む姉に預けていました。

 

こんな壊れた母親を見たら娘もどうなっていただろう、そう考えると姉に預けてよかったと思います。

 

それからは、なぜ自分が生き残ってしまったかを悔やむ日々で、ずっと私は死ねばいいのにと思っていました。

 

その長い、長い深底もずっと見守ってくれたまわりの人たち。

 

それから、気持ちを共有したい、一緒に助かりたいという気持ちでボランティアをはじめました。

 

何も言わない、寄り添うけど。でも近くにいるから、と約束する。

 

そうして生きてきて、いろんなうれしいことも辛いこともあっての今があります。

 

死んだじいちゃんは、仏様のような人で、本当に仏様になってしまったけれど。(ブラックジョーク?)

 

一級建築士なのに、家族のために出稼ぎに行って人生の半分以上を飯場で過ごし、仕送りをしたこと。

 

同じ、飯場の外国人に缶コーヒーを買ってあげると喜んでくれると。

 

地元に帰ってきてからも、コスモス畑を耕したり、刈ったりも何も「手伝っただけ」って。

 

今の仕事をする前のボランティアをしていた時に家族にいつも言われていた言葉は、

 

「じいちゃんは人のためだったら何でもしていいよって言ってた。お金とかじゃなくて、人のためになるんだったら何でもしたほうがいい。」と。

 

だから続けられた。

 

そんな私は今、続けられているのは、まわりの協力もあり、娘のアシスタントのおかげもあり、いろいろな力に助けられています。

 

ありがとうございます。