震災11年目の気仙沼風景とロシアの支援物資の思い出 | 美容・医療ジャーナリスト 海野由利子のブログ

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美と健康にまつわるさまざまなニュースや注目していること、雑誌に載せきれなかった情報をお伝えします。

東日本大震災からまる11年。お香を焚き、短いお経を唱えました。

 

あの日は東京も大混乱で、渋谷から徒歩で帰宅する娘を待ちながら報道番組を見続け、

首都圏に住む親族や友人とメールや電話で情報交換をしていました。

震災20日後、ガソリンスタンドでの給油ができるようになってから出身地の気仙沼に向かい、その後は親戚の住む地域や岩手の大船渡を訪れたりしていました。

様々な思いは語りつくせませんが、記録として「東日本大震災」のカテゴリを作っております。

 

今、ロシアは大統領の命令により、ウクライナに対してテロと呼ぶべき非道な侵攻を行っていますが

2011年の震災時には支援もしてくれていました。8月に太平洋に面している唐桑地区の叔母宅を訪ねたとき、「中身が何かわからないから開けられない。わかる?」と、缶詰をいくつか出してきました。

 

その中のひとつが、これ下矢印

 

 

ロシア語が堪能な同業者のKWちゃんに写真を送ると「牛肉」だと即答。

ほかにもいろいろ、中身を伝えることができたので、避難している皆さんとの食事に活用できたそうです。

 

支援をしてくれていたロシアが今、こんな状態なのは大統領が命令しているから。

何をどう考えてもあってはならないこと。なんとか1日も早く侵攻停止、ロシア軍退却となってほしい。ロシア軍の兵士たちも、家に帰ろう。

自然災害を防ぐことは難しいけれど、侵攻や戦争はヒトが行うこと。今までの人類史を知るなら馬鹿げていることだと解るはずなのに。愚か過ぎる。

 

 

クローバー     クローバー     クローバー     クローバー     クローバー お清めキラキラ

 

 

今日は祈りの日。気仙沼の同級生から写真が届きました。

支援に加わってくださった方々にも見ていただきたいので、同級生の許可を得てご紹介します。

 

震災祈念公園。両手を合わせた形にも見える「祈りの帆(セイル)」

南に向いていて、内湾~大島(「おかえりモネ」の舞台となった亀島です)を望めます。

 

 

漁船が停泊している魚市場と、漁業・鮮魚関連の施設、会社が集中しているエリア。

奥に三陸沿岸道の橋(橋脚)が見えます。

 

 

海にかかる、三陸沿岸道の「かなえおおはし」。漢字だと「鼎大橋」。

 

「鼎」とは、古代中国の、3本の脚が付いた金属製の器。王侯などの祭礼に使われたことから王位の象徴となりました。

で、なんで「鼎」か? 

この気仙沼湾の形が「3本の脚に見える」ということから「鼎が浦(かなえがうら)」.と呼ばれているのです。

残念ながら地名ではなく、かつては県立の女子高が「鼎が浦高等学校」という名前でした。

私の出身校ですが、2005年に男子校の気仙沼高校と統合。「鼎が浦」の名前はなくなりました。

 

「かなえおおはし」には、歴史ある「鼎」の名を残そうという思いが込められているのです。

余談ですが、統合以前の“鼎生”は全員「鼎」の読み・書きできます。高校関連以外ではまず書くことはありませんが泣き笑い

 

 

上の写真に写ってる船が着くのがここ

下矢印

 

 

気仙沼⇔大島間の橋もできたため船の定期航路が無くなりましたが、ここが客船ターミナル。

今は観光船がいくつかあるようです。

 

定期航路があったころは商店が続く、にぎわっていたエリアです。

小高い「浜見山地区」に気仙沼小学校・中学校があり、私も6歳から小5くらいまで住んでました。

この写真は気仙沼小学校の学区なので、同級生の家があったり遊びに出かけたりしていた懐かしい場所です。

 

 

しばらく帰ってませんが、最新の写真送ってもらい嬉しくて。

拡大しながらエア帰省ができました。

「津波で壊されてしまったけど、もっといい町に」と地元の皆さんの思いが込められながら、気仙沼は新しくなってきています。

 

✱海外からの「中身のわからない支援物資」の話